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ホテルのラウンジでカレーを食べる

カレー。
それはとても罪深い。
実物が視界に入ってないのに、香りだけでカレーだと分からせる存在感は何なの?
香りに誘われ、気づくとカレーを食べることに思考が支配されるのだ。


初秋のある晴れた月曜日。
平日だったけれど、たまたま仕事が休みだった私は、1人、ちょっと緊張しながらホテルのラウンジに入った。
5つ星ホテルのロビーラウンジ。
以前、同ラウンジでお茶とケーキをいただく機会に恵まれ、その落ち着く雰囲気と提供されるサービスが忘れられず、今度は1人で来訪してみようと思い立ったのだ。
もちろん理由はホスピタリティだけではなく、本当は「自分もこういう場に出向くことができる」という自信を持ちたかったのもある。
いや、出向くことはできるのだけど、改まった場所は緊張してしまうので、どんな場の空気でも呑まれない自信と態度を持ちたい。
そして同じような毎日を繰り返してばかりを過ごしているので、少し勇気を出して非日常に身を置きたかったのだ。
でもね、何よりもまず、以前いただいた紅茶が美味しかったの!


案内された、1人でも落ち着けそうな店内の奥まった席には、なぜかスパイスの良い香りが漂っていた。
人生一度でもカレーの香りを嗅いだことがあれば、一瞬でそれと分かる香り。
本当はお茶をいただく目的だったのだ。
確かに昼時11:30ではあったが、そこまでお腹は空いていなかった。
けど、テーブルに広げられたメニューの中の、「ビーフカレーランチ」の文字を見てしまっては、もうダメだった。
そもそも私はカレーが苦手なのに、席に漂う香りとメニューに添えられた写真を見てしまえば、「一度食べてみたい」と思ってしまった。
メニューには芸術品のような美しいケーキや、それこそヘルシーなサラダ付きのサンドイッチなどもあったのに。
「ビーフカレーランチをお願いします」
「ソフトドリンクはアップルジュースかマンゴージュースをお選びいただけます」
「マンゴージュースで」
そんなやりとりをして、メニューを下げていただく。
何をしているの、私は。
お茶をいただきに来たのに、普段食べないカレーを頼み、さらに普段全く飲まないジュースを頼むなんて!(それも、普段ならまず選択肢に上がってこないマンゴージュース!)
楽しみすぎる。


食べきれるのかな、と若干心配になりながら電子書籍で時間を潰す。
周りを見れば、ラウンジだから比較的カジュアルではあるけれど小綺麗な装いをされたお客様ばかり。
私の服装といえば、トップスは紺色のリネン素材の襟付きシャツだけれど、黒のペンシルスカートと黒のエナメル素材のバレエシューズ。そこまでカジュアルすぎない服装だから、たぶん大丈夫。場に浮いていないなはず、と言い聞かせる。
私の斜め前の席には、70-80代くらいと思われる上品なマダムたちがおしゃべりに華を咲かせている。
どんな年代になっても、素敵な場所で楽しくお茶をする余裕は持ちたいな、と思うし、そうあるために頑張るよ、と見知らぬマダム達を拝見して密かに決意する。

そうこうしていると、ついに待っていたものが到着した。
先に提供されたのはマンゴージュース。カトラリーと、付け合わせの福神漬けとらっきょう。
マンゴージュースの濃厚なオレンジ色に、(あ、これは間違いないやつだ)と俄かに頬が緩む。
マンゴーの色を「オレンジ」色と例えるのも、なんか違う気もするけど。
とりあえず、今は我慢。
氷が入っていないので、味が薄くなる心配もないのが幸い。
そして当然のように置かれた淡い朱色の福神漬けと白いらっきょうのセット。
ふふ、分かってらっしゃる。
どの目線で言うか、と思うが、確かにそう思った。
なにせ私にとってカレーの付け合わせは福神漬けとらっきょうだったから。
小さい頃からカレーには福神漬けがさりげなく、けれど存在感を放って添えられていた気がする。


ホテルのラウンジでビーフカレーの到着を待つ。
非日常でしかない場に身を置きながら、本を読む目は文字を滑るだけで心落ち着かない。
店内に飾られる調度品や、テーブルに置かれた一輪のピンクのバラを愛でたり、手元にある電子書籍の続きを見たりと、なかなか忙しない時間を過ごした。

そしてついにビーフカレーが到着。
黒く美しい器。
別々の器に盛られたビーフカレーとライスが提供され、一気にスパイスの良い香りが鼻を通った。
具は、ゴロゴロと角切りの牛肉のみという潔いビーフカレー。
黒い器に映える、真っ白いライス。
よくあるアラビアンっぽい銀の器ではない、黒の陶器に注がれたカレー。
これは…ライスにかけて良いの? それともライスをカレーに付けて食べるものなの?
カレーをよそうための磨かれた銀色のスプーンを手に持ったまま、一瞬固まる。
ホテルのラウンジやレストランで食べるカレーの所作なんて私は知らない。
カレーをよそうスプーンが付いていると言うことは、ライスにルーを直接掛けてもいいんだよね?
カレーを食べる前に、こんなに悩んだことはないかもしれない。
とりあえず私は連れも居ないし、温かいうちにいただきたいし、ルーをよそうためのスプーンも付いてるし、多分咎められることはないだろうと自分を言い聞かせてカレーをライスに掛ける。
カレーをよそうなんて、久しぶりすぎる。
もしかして学生の時(十数年前)以来かもしれない。
楽しい。
黒の器の中で、左はブラウン色のビーフカレー、右は白いライス、ライスの右上には淡い朱色の福神漬けと白いらっきょう。
付け合わせで使う小さいトングの強度が意外に強くて、器の中で福神漬けが飛んでいったけど、私にとって完璧なビジュアルが誕生。


磨かれた銀のスプーンでいただく。
うん、美味しい。
スパイスが強すぎるわけでもなく、でも舌をほどほどに刺激するけれど、痛いと言うわけではない。
どういう味か、どんなスパイスかと問われると、語彙力もカレーの知識もないので残念ながら美味しさをお伝えできない。
角切りのビーフはホロホロと崩れるくらいに柔らかい。
一口食べて、スプーンを置いて味わう。
うん、美味しい。
久しぶりのカレーを注文すると言う私の選択肢は、結果、とても満足するものになった。
食後に、マンゴージュースをいただく。
口に含んだ瞬間の、とろりとした舌触りと、まろやかな甘み。
うん、この選択も間違ってはいなかった。
しばらく置いていたから当初の冷たさはなくなっているかもしれないが、元より冷たいものは得意ではないので、私好みの温度になってちょうど良かった。
うん、満足。
お腹パンパンだけど。


場の空気に呑まれつつ、ビーフカレーとマンゴージュースでたっぷり1時間45分も滞在し、私はゆっくりとラウンジを後にした。
秋晴れの日差しが眩しい。
どうしよう、今日はもうお腹が空く気がしない。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
美味しいものでもいただきながら、どうぞ良い時間をお過ごしくださいませ。


Izumi

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