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〈序論〉「決断疲れ」とどう向き合うべきか

 どんな仕事だってそうだけど、仕事を進めていく上で決断を迫られる場面に多く遭遇する。一度熟考してから決断できる場合もあるけれど、その瞬間でなければできない、またはその瞬間にしなければならない決断もある。教員の場合、その決断が対生徒の場合が多く、しかもリアルタイムに決断しなければならない場合が多い。
 その瞬間に生徒にどんな言葉をかけるべきか。その出来事に対してどのようにアプローチすべきか。二者択一どころではなく、無限にある言葉・行為の中から選択するということの連続が日々積み重なっていく。その決断の積み重ねによる心的疲労は甚大だ。

 先日、こんなネット記事を目にした。

 私も二人の子どもと同居する父親であり、育児の中で様々な場面で決断に迫られる場面に遭遇する。

 学校の中でもこのような「決断疲れ」に悩まされる教員も多いのではないか。なぜ決断することに「疲れ」が生じてしまうのだろうか。
 決断疲れを回避する最も簡単な手段は「圧政を敷く」というものである。決断の主権を教員がすべて握り、児童生徒の思考・判断や、抗議・議論の権利を剥奪する。善悪・正負・優劣の価値判断基準を教員の意見だけで行い、児童生徒をその価値基準に従わせること。そうすれば、教員が何かを決断する際に心的な負担を負わずに済む。
 そう考えると、なぜ決断が疲れるのかといえば、生徒の意志を第一に考えなければならないからだ。教員の自己内で閉じられた決断をするのであれば疲れることはないが、生徒という他者の意志を最大限に尊重する必要があり、自分の価値基準と生徒の価値基準とのすりあわせを行う中で「疲れ」が生じるのである。日常で起きる一つ一つの決断が、政治なのである。

 そもそも「決断疲れ」は回避すべき課題なのか。決断疲れと無縁なってしまったときは、全体主義の始まりなのではないか。
 この記事を書き始めるときは「決断疲れを回避するにはどうすればいいか」という発想を持っていたが、いや、決断疲れと決別すべきではない。もちろん「疲れ」の部分を緩和する必要はあるものの、「疲れ」と決別するということは「他者の意志を尊重すること」との決別を意味する。でも、疲れたくはない。

 児童生徒の意志を尊重しながらも、「疲れ」を緩和するにはどうすればいいのだろうか。それでいてこの「疲れ」という感覚はとても重要なものだ。「疲れ」を感じるということは、それだけ生徒との対話を重ねているという証拠でもある。しかし、疲れが過剰に蓄積してしまっては教員の業務に悪い影響を及ぼしてしまう。そうなると、「決断疲れ」と向き合うための条件は以下の三つにまとめられる。

①児童生徒の意志を最大限尊重する
②「疲れ」の感覚を大切にする
③過剰な「疲れ」の蓄積を回避する

 この三つの条件を満たすためにはどうすればいいのか。どんな価値基準を持ち、どんな語彙を持つ必要があるのか。このマガジンでは、教育学だけではなく、文学・社会学・政治学・哲学など幅広い分野の知識を援用しながら教員と児童生徒がどう向き合っていくべきかを考えていきたい。おそらくゆっくりな足取りになると思うが、お付き合いいただければ幸いである。

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