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【随想】芥川龍之介『きりしとほろ上人伝』

この時「あんちおきや」の人数の中より、一人悠々と進み出いたは、別人でもない「れぷろぼす」じゃ。山男がこの日の出で立ちは、水牛の兜に南蛮鉄の鎧を着下いて、刃渡り七尺の大薙刀を柄みじかにおっとったれば、さながら城の天主に魂が宿って、大地も狭しと揺ぎ出いた如くでおじゃる。さるほどに「れぷろぼす」は両軍の唯中に立ちはだかると、その大薙刀をさしかざいて、遥に敵勢を招きながら、雷のような声で呼わったは、
「遠からんものは音にも聞け、近くばよって目にも見よ。これは『あんちおきや』の帝が陣中に、さるものありと知られたる『れぷろぼす』と申す剛の者じゃ。辱くも今日は先手の大将を承り、ここに軍を出いたれば、われと思おうずるものどもは、近う寄って勝負せよやっ」と申した。

芥川龍之介『きりしとほろ上人伝』(短編集『奉教人の死』)新潮社,1968

「何として帝は、あのように十字の印を切らせられるぞ」と卒爾ながら尋ねて見た。ところがその侍の答えたは、
「総じて悪魔と申すものは、天が下の人間をも掌にのせて弄ぶ、大力量のものでおじゃる。じゃによって帝も、悪魔の障碍を払おうずと思召され、再三十字の印を切って、御身を守らせ給うのじゃ」と申した。「れぷろぼす」はこれを聞いて、迂論げに又問い返したは、
「なれど今『あんちおきや』の帝は、天が下に並びない大剛の大将と承った。されば悪魔も帝の御身には、一指をだに加えまじい」と申したが、侍は首をふって、
「いや、いや、帝も、悪魔ほどの御威勢はおじゃるまい」と答えた。山男はこの答を聞くや否や、大いに憤って申したは、
「それがしが帝に随身し奉ったは、天下無双の強者は帝じゃと承った故でおじゃる。しかるにその帝さえ、悪魔には腰を曲げられるとあるなれば、それがしはこれよりまかり出でて、悪魔の臣下と相成ろうず」

同上

「然らば唯今、御水を授け申そうずる」とあって、おのれは水瓶をかい抱きながら、もそもそと藁家の棟へ這い上って、漸く山男の頭の上へその水瓶の水を注ぎ下いた。ここに不思議がおじゃったと申すは、得度の御儀式が終りも果てず、折からさし上った日輪の爛々と輝いた真唯中から、何やら雲気がたなびいたかと思えば、忽ちそれが数限りもない四十雀の群となって、空に聳えた「れぷろぼす」が叢ほどな頭の上へ、ばらばらと舞い下ったことじゃ。この不思議を見た隠者の翁は、思わず御水を授けようず方角さえも忘れはてて、うっとりと朝日を仰いで居ったが、やがて恭しく天上を伏し拝むと、家の棟から「れぷろぼす」をさし招いて、
「勿体なくも御水を頂かれた上からは、向後『れぷろぼす』を改めて、『きりしとほろ』と名のらせられい。思うに天主もごへんの信心を深う嘉させ給うと見えたれば、万一勤行に懈怠あるまじいに於ては、必定遠からず御主『えす・きりしと』の御尊体をも拝み奉ろうずる」と云うた。

同上

「如何に渡し守はおりゃるまいか。その河一つ渡して給われい」と、聞え渡った。されば「きりしとほろ」は身を起いて、外の闇夜へ揺ぎ出いたに、如何なこと、河のほとりには、年の頃もまだ十には足るまじい、みめ清らかな白衣のわらんべが、空をつんざいて飛ぶ稲妻の中に、頭を低れて唯ひとり、佇んで居ったではおじゃるまいか。山男は稀有の思をないて、千引の巌にも劣るまじい大の体をかがめながら、慰めるように問い尋ねたは、
「おぬしは何としてかような夜更けにひとり歩くぞ」と申したに、わらんべは悲しげな瞳をあげて、
「われらが父のもとへ帰ろうとて」と、もの思わしげな声で返答した。

同上

 それが凡そ一時あまり、四苦八苦の内に続いたでおじゃろう。「きりしとほろ」は漸く向うの岸へ、戦い疲れた獅子王のけしきで、喘ぎ喘ぎよろめき上ると、柳の太杖を砂にさいて、肩のわらんべを抱き下しながら、吐息をついて申したは、
「はてさて、おぬしと云うわらんべの重さは、海山量り知れまじいぞ」とあったに、わらんべはにっこと微笑んで、頭上の金光を嵐の中に一きわ燦然ときらめかいながら、山男の顔を仰ぎ見て、さも懐しげに答えたは、
「さもあろうず。おぬしは今宵と云う今宵こそ、世界の苦しみを身に荷うた『えす・きりしと』を負いないたのじゃ」と、鈴を振るような声で申した。…………

同上

 己が強大な力を振るう理由が見つからず悩み抜いた巨人がついに出会ったのは三位が一体は神の子であった。その子を乗せた肩が受ける重みはまさしく人生の意味生きる意味生まれた意味その重さである。過重の苦しみこそ生を象徴するのでありそれを知る巨人はいまや力を振るう理由に悩む事など有り得ない。彼は知った彼は出会った彼は解いた彼は手にした誰にも奪われない最高の喜びを。真の歓喜は苦しみの先悲しみの果てにしかないと。泣け喚け震えて流せ。そして全てを失って尚残るものを見よ。それが唯一絶対の揺るぎないあらゆる虚飾が削ぎ落とされた真実の解である。もう迷うことはあるまい。あなたは歓喜の人となった。

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