Junigatsu Yota

十二月葉太は八日目の世界を創造しています;詩、エッセイ、読書感想文等

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最近の記事

【随想】芥川龍之介『枯野抄』

 偉大過ぎる存在の側にいる者の苦しみに、同情出来る者は少ない。太陽ははるか遠方にあるからこそ、地球はその恩恵を享受できる。もし今よりほんの少しでも近付けば、たちまち燃やし尽くされるだろう。深すぎる闇で眼は力を失うように、眩すぎる輝きもまた力を奪う。深淵の闇から脱した者と満遍の光に陰を得た者とは、同じ喜びを味わうのではなかろうか。汚れの無い人生を歩んでいる人は、常に人生が汚れる恐怖に苛まれている。完璧を目指している人は、それが永遠に手に入らない焦燥に苛まれている。傷は、解放であ

    • 【随想】芥川龍之介『開化の殺人』

       狂気のような熱情によって自己世界に陥る者を最早止める術はない。彼の意識、彼の理想、彼の罪、彼の有終の姿態は、彼の中で既に完成しており、それは他者の如何なる干渉も受け付けず、運命的に決定されている。殺人或いは自殺でさえ、その影響も評価も、それが相対的である限り、彼には何の意味も無い。結末を決定してしまった人間は、生に迷い悩む者には到底発揮出来ない、恐ろしい程のエネルギーによって猛然と世界を切り開き、自己の求める形へと世界を変化させていく。但しそれは戻ることの許されない一方的転

      • 【随想】芥川龍之介『戯作三昧』

         どれだけ高尚な思想を洗練させても、どこまでも現実は現実で、肉体は老い、腹は減り、糞は出て、誰かを憎み、誰かを愛で、いつまでたっても我執を捨てられず、悟りは得られない。没頭している間は神になったような気さえするのに、眠気と空腹が神を人間に戻してしまう。全てを愛そうという誓いは、たった一言の憎まれ口や陰口で、あっさり破られるのだ。全てを許そうという覚悟は、横暴な老人の振る舞い一つで、あっさり忘却されるのだ。自分の器の矮小さを、自分で量ることは出来なくて、他人を見てあれよりはマシ

        • 【随想】芥川龍之介『或日の大石内蔵之助』

           或一時の熱狂から冷め、視界が広く明るく解放されていくと、熱中していた頃の振る舞いの一切が、ビデオの中の自分のように、酷く幼稚で滑稽に思えて恥ずかしくなる。  過去に満足する事は、未来に対して失望する事よりも、遥かに困難だ。猛る狂奔の渦から飛び出してくる僅かな理性を頼りに、人は後悔と懺悔の城塞を築き、その中に閉じこもり時が過ぎるのを待つ。だが人生には、いつまでも後悔の嵐が吹き荒れている。後悔しないように生きる事など出来ない。何を選んでも、何をしても、何をしなくても、生き続ける

        【随想】芥川龍之介『枯野抄』

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        • 【随想】芥川龍之介
          43本
        • 【随想】宮沢賢治
          53本
        • 【随想】太宰治
          143本

        記事

          【随想】芥川龍之介『糸女覚え書』

           何でもいい。仏だろうと神だろうと、生まれた罪を許す理由を与えてくれるなら、誰にだって帰依してやる。我々の思想に道筋を示し、迷いを断ち切り、首輪を付けて引張っていってくれ。不味い餌にも、狭い小屋にも、理不尽な叱責にも、黙って耐えてやるから、この魂の従属先をくれ。気を抜くと何処かに飛んでいく世界、足下が不安で不安で仕方ないんだ。ナイフリッジを爪先立ちで歩く恐怖、あまりにか細く頼りない自我、生きることは、なぜこんなにも苦しいのか。こんなにも苦しいのに、なぜ生まれてくるのか。皮肉な

          【随想】芥川龍之介『糸女覚え書』

          【随想】芥川龍之介『おしの』

           言葉を用いた説教など、熱を纏ったリアルな生き様に比べれば、ままごとのようなものだ。人は言葉によって世界を知るが、言葉は認識の表面的発露に過ぎない。人の世界を世界足らしめるものは、言葉ではなく、言葉の根源たる認識である。ある説教が心に響かないとすれば、その説教は世界の根源的認識に基づいていない、空虚な言葉遊びなのである。他人を動かすのは言葉ではない、言葉の中に潜んで他人の心に入り込み、その者に未知の世界を想起させる熱のようなエネルギーなのだ。

          【随想】芥川龍之介『おしの』

          【随想】芥川龍之介『おぎん』

           信仰に生きることの意義を、今こそ見つめ直すべきだろう。個人が社会から遊離した現代は、誰も彼も即席の快感で不安を誤魔化している。或いは集合的無意識が産み出した“正義”というルールに身を委ねて、孤独な生物の本質から目を背け、ひたすらに思考放棄している。いや、むしろ思考から逃避している。信仰とは価値観であり、世界の形である。信仰は人に影を与え、即ち人を立体化する。人は画一的な平面世界から立ち上がることで、初めて世界の本当の姿を認識できる。信仰とは、正解を示すものではない。逆に、間

          【随想】芥川龍之介『おぎん』

          【随想】芥川龍之介『報恩記』

           殺されてやる。貴様への復讐の為、殺されてやる。  命とは、生死が問題なのではなく、どう使うかが問題なのだ。命は、意志を具現する手段である。世界の有限性と、意志の不自由さを自覚し、結果を選ぶのではなく、結果を創造するのだ。それが、自分の生きた証となり、死後の世界を旅する切符となる。  他者の世界から身を引いて、自分それ自身を意識せよ。それが見つかるまで、そしてそれが消えていくまで、意識し続けよ。有限の世界を脱し、無限を経験し、新たに無限の有限を創り出せ。死んでも消えないもの、

          【随想】芥川龍之介『報恩記』

          【随想】芥川龍之介『神神の微笑』

           桜がほの白く漂う夜気に、せせらぎの音のように溶け込んでいく意識を意識した時、ああこの世界には確かに神の力が遍満しているのだと、この愚かな人でさえ気付くことができた。僕等はどうしようもなく世界に溶けていく。それも何の厭味もなく、何の力みもなく、あらゆるものと調和するように溶けていく。何もかも予定されていたように、意識はいつの間にか脳を抜け出して、遠いような近いような何処かに集合している。ああそんな春の花夢がいつまでも続けば、僕は確実に気を違えるだろう、そして仙人になるだろう。

          【随想】芥川龍之介『神神の微笑』

          【随想】芥川龍之介『黒衣聖母』

           求めよさらば与えられん。しかし求めたものが、どのような形で与えられるかまでは分からない。求める心は心を変え世界を変える。世界の見え方を、世界との関わり方を、世界への期待を、世界から得る感情を、変える。求める前に見えていた形と、求めた後に見えている形は自ずから異なる。それはつまり、望みが望み通りに与えられたとしても、与えられた時には既に希望にかなう形ではなくなっているかも知れないという事だ。それに、そもそも望みが望まれるべきものとは限らない。望みが自分を満たすかどうかは、自分

          【随想】芥川龍之介『黒衣聖母』

          【随想】芥川龍之介『きりしとほろ上人伝』

           己が強大な力を振るう理由が見つからず悩み抜いた巨人がついに出会ったのは三位が一体は神の子であった。その子を乗せた肩が受ける重みはまさしく人生の意味生きる意味生まれた意味その重さである。過重の苦しみこそ生を象徴するのでありそれを知る巨人はいまや力を振るう理由に悩む事など有り得ない。彼は知った彼は出会った彼は解いた彼は手にした誰にも奪われない最高の喜びを。真の歓喜は苦しみの先悲しみの果てにしかないと。泣け喚け震えて流せ。そして全てを失って尚残るものを見よ。それが唯一絶対の揺るぎ

          【随想】芥川龍之介『きりしとほろ上人伝』

          【随想】芥川龍之介『るしへる』

           光があれば影がある。影もまた、光の存在をしめす。悪魔は人の影なれば、人ある所に悪魔もある。人と悪魔は一体である。否、人と悪魔の別そのものが、初めから存在しない。表と裏、模様が違えど同じコインであるように。自己同一性を求め悩める人の子よ、コインの裏を見よ。全てコインが表を向いているからとて、裏の模様のコインを持っていないと悩むだろうか、裏の模様のコインが欲しいと思うだろうか。見えていないだけで、汝が求めるものを、汝は既に手にしているのだ。それはつまり、人は悪魔でもあり、悪魔と

          【随想】芥川龍之介『るしへる』

          【随想】芥川龍之介『奉教人の死』

           炎は天上へ向かう。まるでそこが本来居るべき場所であるかのように、上へ上へ、立ち昇っていく。恐ろしくも美しい光、魂と世界を結ぶ熱。狂い踊る業炎と共に廻る時、DNAが螺旋を描く意味を知る。肉体を失った魂は、白光に満ちた神国を目指し、螺旋階段を登っていく。それはまるでバレルを駆け抜ける弾丸。信仰によって強く硬く美しい円錐形となった魂の弾丸、遂に肉身の罰を終え解き放たれた喜びの涙石、それは無限の輪廻から脱する最後の回転。それは神の国を基礎づける、一本の螺となる。

          【随想】芥川龍之介『奉教人の死』

          【随想】芥川龍之介『さまよえる猶太人』

           生きる事は辛く、苦しい。そして罰とは、苦しみを与えられる事である。生きる事は、罰なのか。生命は、罰を受ける為に生まれてくるのか。何故? 何故罰を受けねばならない? その答えが、原罪、なのだろう。生まれながらに背負っている罪、より厳密に言えば、生まれる前から、生まれる事が予定されたその時から、背負っている罪。生命は、生という罰を受ける為に生まれてくる。生命は、それ自身が罪である。この世界に存在し、世界を認識し、世界を構成する事は、それでもう罪なのである。ならば生まれたくなどな

          【随想】芥川龍之介『さまよえる猶太人』

          【随想】芥川龍之介『煙草と悪魔』

           例えば都心に生まれ育った人でも、まだ山頂に残雪を戴く山麓に広がる畑を見て、冬の冷気が去った水田に燦めく陽光を見て、畦道に伸びるツクシやフキノトウを見て、春風にふわふわ揺れる白や黄色の蝶を見て、この国の美しさを、心に想起される原風景との重なりを、感じない人はいないのではないだろうか。あの胸の安らぎは、湧き上がる喜びは、日本人でなければ感じ得ないものなのだろうか。あの風景、あの空間の中に居て、邪念を逞しくする事なんて、それこそ悪魔でも出来ないだろう。この星の生命の強さ、美しさ、

          【随想】芥川龍之介『煙草と悪魔』

          【随想】芥川龍之介『白』

           名前を奪われる。それは自分という存在を奪われる事であり、道端の石ころのように、そこにあってそこに無いものになるという事だ。名前は他者が自分を認識する為の記号であり、自分を他者と区別し、自分という存在を世界に位置づける事が出来るのは、名前があるからである。だがそれでも、名前を奪われて尚、決して消えないもの、誰にも奪えない確かなものがある。それは、自分が世界を見ている、世界があると感じている、その認識そのものだ。存在は他者からの認識によって成り立ち、認識は世界という他者があって

          【随想】芥川龍之介『白』