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【随想】芥川龍之介『開化の殺人』

 閣下、並に夫人、予は過去に於て殺人罪を犯したると共に、将来に於ても亦同一罪悪を犯さんとしたる卑む可き危険人物なり。しかもその犯罪が卿等に最も親近なる人物に対して、企画せられたるのみならず、又企画せられんとしたりと云うに至りては、卿等にとりて正に意外中の意外たる可し。予は是に於て、予が警告を再するの、必要なる所以を感ぜざる能わず。予は全然正気にして、予が告白は徹頭徹尾事実なり。卿等幸にそを信ぜよ。而して予が生涯の唯一の記念たる、この数枚の遺書をして、空しく狂人の囈語たらしむる事勿れ。

芥川龍之介『開化の殺人』(短編集『戯作三昧・一塊の土』)新潮社,1968

 予は少時より予が従妹たる今の本多子爵夫人(三人称を以て、呼ぶ事を許せ)往年の甘露寺明子を愛したり。

同上

予は日記に書して曰、「予は明子にして、かの満村某の如き、濫淫の賤貨に妻たるを思えば、殆一肚皮の憤怨何の処に向ってか吐かんとするを知らず。神は予に明子を見る事、妹の如くなる可きを教え給えり。然り而して予が妹を、斯る禽獣の手に委せしめ給いしは、何ぞや。予は最早、この残酷にして奸譎なる神の悪戯に堪うる能わず。誰か善くその妻と妹とを強人の為に凌辱せられ、しかも猶天を仰いで神の御名を称う可きものあらむ。予は今度断じて神に依らず、予自身の手を以て、予が妹明子をこの色鬼の手より救助す可し」

同上

「六月十二日、予は独り新富座に赴けり。去年今月今日、予が手に仆れたる犠牲を思えば、予は観劇中も自ら会心の微笑を禁ぜざりき。されど同座より帰途、予がふと予の殺人の動機に想到するや、予は殆帰趣を失いたるかの感に打たれたり。嗚呼、予は誰の為に満村恭平を殺せしか。本多子爵の為か、明子の為か、抑も亦予自身の為か。こは予も亦答うる能わざるを如何。

同上

 本多子爵閣下、並に夫人、予は如上の理由の下に、卿等がこの遺書を手にするの時、既に屍体となりて、予が寝台に横わらん。唯、死に際して、縷々予が呪う可き半生の秘密を告白したるは、亦以て卿等の為に聊自ら潔せんと欲するが為のみ。卿等にして若し憎む可くんば、即ち憎み、憐む可くんば、即ち憐め。予は――自ら憎み、自ら憐める予は、悦んで卿等の憎悪を憐憫とを蒙る可し。

同上

 狂気のような熱情によって自己世界に陥る者を最早止める術はない。彼の意識、彼の理想、彼の罪、彼の有終の姿態は、彼の中で既に完成しており、それは他者の如何なる干渉も受け付けず、運命的に決定されている。殺人或いは自殺でさえ、その影響も評価も、それが相対的である限り、彼には何の意味も無い。結末を決定してしまった人間は、生に迷い悩む者には到底発揮出来ない、恐ろしい程のエネルギーによって猛然と世界を切り開き、自己の求める形へと世界を変化させていく。但しそれは戻ることの許されない一方的転落的エネルギーである。他者から見た彼の結末は一つ、粉々に砕け散るのみである。
 せめて宙を舞う彼の欠片に、陽光でも星光でも煌めいてくれ。彼の命に反射した光はきっと、いつか誰かに届くから。

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