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【随想】芥川龍之介『或日の大石内蔵之助』

 もし、まだ片のつかないものがあるとすれば、それは一党四十七人に対する、公儀の御沙汰だけである。が、その御沙汰があるのも、いずれ遠い事ではないのに違いない。そうだ。すべては行く処へ行きついた。それも単に、復讐の挙が成就したと云うばかりではない。すべてが、彼の道徳上の要求と、殆完全に一致するような形式で成就した。彼は、事業を完成した満足を味ったばかりでなく、道徳を体現した満足をも、同時に味う事が出来たのである。しかも、その満足は、復讐の目的から考えても、手段から考えても、良心の疚しさに曇らされる所は少しもない。彼として、これ以上の満足があり得ようか。……

芥川龍之介『或日の大石内蔵之助』(短編集『戯作三昧・一塊の土』)新潮社,1968

彼としては、実際彼等の変心を遺憾とも不快とも思っていた。が、彼はそれらの不忠の侍をも、憐みこそすれ、憎いとは思っていない。人情の向背も、世故の転変も、つぶさに味って来た彼の眼から見れば、彼等の変心の多くは、自然すぎる程自然であった。もし真率と云う語が許されるとすれば、気の毒な位な真率であった。従って、彼は彼等に対しても、終始寛容の態度を改めなかった。まして、復讐の事の成った今になって見れば、彼等に与う可きものは、唯だ憫笑が残っているだけである。それを世間は、殺しても猶飽き足らないように、思っているらしい。何故我々を忠義の士とする為には、彼等を人畜生としなければならないのであろう。我々と彼等との差は、存外大きなものではない。

同上

 こう考えている内蔵之助が、その所謂佯狂苦肉の計を褒められて、苦い顔をしたのに不思議はない。彼は、再度の打撃をうけて僅に残っていた胸間の春風が、見る見る中に吹きつくしてしまった事を意識した。あとに残っているのは、一切の誤解に対する反感と、その誤解を予想しなかった彼自身の愚に対する反感とが、うすら寒く影をひろげているばかりである。彼の復讐の挙も、彼の同志も、最後に又彼自身も、多分この儘、勝手な賞讃の声と共に、後代まで伝えられる事であろう。――こう云う不快な事実と向いあいながら、彼は火の気のうすくなった火鉢に手をかざすと、伝右衛門の眼をさけて、情無さそうにため息をした。

同上

 或一時の熱狂から冷め、視界が広く明るく解放されていくと、熱中していた頃の振る舞いの一切が、ビデオの中の自分のように、酷く幼稚で滑稽に思えて恥ずかしくなる。
 過去に満足する事は、未来に対して失望する事よりも、遥かに困難だ。猛る狂奔の渦から飛び出してくる僅かな理性を頼りに、人は後悔と懺悔の城塞を築き、その中に閉じこもり時が過ぎるのを待つ。だが人生には、いつまでも後悔の嵐が吹き荒れている。後悔しないように生きる事など出来ない。何を選んでも、何をしても、何をしなくても、生き続ける限り後悔に悩まされていく。それでも、何もしない事など出来ないから、皆諦めと投げやりの微笑を浮かべ、また後悔を重ねていくのだ。


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