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【随想】芥川龍之介『さまよえる猶太人』

 では「さまよえる猶太人」とは何かと云うと、これはイエス・クリストの呪を負って、最後の審判の来る日を待ちながら、永久に漂浪を続けている猶太人の事である。名は記録によって一定しない。或はカルタフィルスと云い、或はアハスフェルスと云い、或はブタデウスと云い、或は又イサク・ラクデエムと云っている。その上、職業もやはり、記録によってちがう。イエルサレムにあるサンヘドリムの門番だったと云うものもあれば、いやピラトの下役だったと云うものもある。中には又、靴屋だと云っているものもあった。が、呪を負うようになった原因については、大体どの記録も変りはない。彼は、ゴルゴタへひかれて行くクリストが、彼の家の戸口に立止って、暫く息を入れようとした時に、無情にも罵詈を浴せかけた上で、散々打擲を加えさえした。その時負うたのが、「行けと云うなら、行かぬでもないが、その代り、その方はわしの帰るまで、待って居れよ」と云う呪である。彼はこの後、パウロが洗礼を受けたのと同じアナニアスの洗礼を受けて、ヨセフと云う名を貰った。が、一度負った呪は、世界滅却の日が来るまで、解かれない。

芥川龍之介『さまよえる猶太人』(短編集『奉教人の死』)新潮社,1968

「されば恐らく、えるされむは広しと云え、御主を辱めた罪を知っているものは、それがしひとりでござろう。罪を知ればこそ、呪もかかったのでござる。罪を罪とも思わぬものに、天の罰が下ろうようはござらぬ。云わば、御主を磔柱にかけた罪は、それがしひとりが負うたようなものでござる。但し罰をうければこそ、贖いもあると云う次第ゆえ、やがて御主の救抜を蒙るのも、それがしひとりにきわまりました。罪を罪と知るものには、総じて罰と贖いとが、ひとつに天から下るものでござる」

同上

 生きる事は辛く、苦しい。そして罰とは、苦しみを与えられる事である。生きる事は、罰なのか。生命は、罰を受ける為に生まれてくるのか。何故? 何故罰を受けねばならない? その答えが、原罪、なのだろう。生まれながらに背負っている罪、より厳密に言えば、生まれる前から、生まれる事が予定されたその時から、背負っている罪。生命は、生という罰を受ける為に生まれてくる。生命は、それ自身が罪である。この世界に存在し、世界を認識し、世界を構成する事は、それでもう罪なのである。ならば生まれたくなどなかった。生まれてくる事が罪ならば、生命とは、罰の存在意義そのものであり、生命の為に罰があるのではなく、罰の為に生命があるのではないか。そうであるならば、生命とは、なんと哀れだろう。生命を創った神は、なんと残酷だろう。許しは、いつ得られるのか。この罰は、いつ終わるのか。最後の審判は、救済か、それとも新たな罰の始まりか。人は、神に生という罰を与えられ、その贖罪を神に捧げる。しかし、罪も罰も神が定めたのなら、こんな馬鹿げた話はないではないか。我々は、生命は、一体何なのか、何の為に存在するのか。人は、この永遠の問いの中を、彷徨い続けている。

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