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【随想】芥川龍之介『報恩記』

 行燈の光に照された、古色紙らしい床の懸け物。懸け花入の霜菊の花。――囲いの中には御約束通り、物寂びた趣が漂っていました。その床の前、――丁度わたしの真正面に坐った老人は、主人の弥三右衛門でしょう、何か細かい唐草の羽織に、じっと両腕を組んだ儘、殆よそ眼に見たのでは、釜の煮え音でも聞いているようです。弥三右衛門の下座には、品の好い笄髷の老女が一人、これは横顔を見せた儘、時々涙を拭っていました。
「いくら不自由がないようでも、やはり苦労だけはあると見える」――わたしはそう思いながら、自然と微笑を洩らしたものです。微笑を、――こう云ってもそれは北条屋夫婦に、悪意があったのではありません。わたしのように四十年間、悪名ばかり負っているものには、他人の、――殊に幸福らしい他人の不幸は、自然と微笑を浮ばせるのです。(残酷な表情)その時もわたしは夫婦の歎きが、歌舞伎を見るように愉快だったのです。(皮肉な微笑)しかしこれはわたし一人に、限った事ではありますまい。誰にも好まれる草紙と云えば、悲しい話にきまっているようです。

芥川龍之介『報恩記』(短編集『奉教人の死』)新潮社,1968

 わたしはこの話を聞いている内に、もう一度微笑が浮んで来ました。が、今度は北条屋の不運に、愉快を感じたのではありません。「昔の恩を返す時が来た」――そう思う事が嬉しかったのです。わたしにも、御尋ね者の阿媽港甚内にも、立派に恩返しが出来る愉快さは、――いや、この愉快さを知るものは、わたしの外にはありますまい。(皮肉に)世間の善人は可哀そうです。何一つ悪事を働かない代りに、どの位善行を施した時には、嬉しい心もちになるものか、――そんな事も碌には知らないのですから。

同上

しかし、――わたしは突然日の光も、わたしのまわりの人だかりも、竹の上に載せた曝し首も、皆何処か遠い世界へ、流れてしまったかと思う位、烈しい驚きに襲われました。この首は甚内ではございません。わたしの首でございます。二十年以前のわたし、――丁度甚内の命を助けた、その頃のわたしでございます。「弥三郎!」――わたしは舌さえ動かせたなら、こう叫んでいたかも知れません。

同上

「莫迦め!」
 甚内は一声叱った儘、元の通り歩いて行きそうにします。わたしは殆気違いのように、法衣の裾へ縋りつきました。
「どうかわたしを使って下さい。わたしはどんな場合にも、きっとあなたを離れません。あなたの為には水火にも入ります。あの『えそぽ』の話の獅子王さえ、鼠に救われるではありませんか? わたしはその鼠になります。わたしは、――」
「黙れ。甚内は貴様なぞの恩は受けぬ」
 甚内はわたしを振り放すと、もう一度其処へ蹴倒しました。
「白癩めが! 親孝行でもしろ!」
 わたしは二度目に蹴倒された時、急に口惜しさがこみ上げて来ました。
「よし! きっと恩になるな!」
 しかし甚内は見返りもせず、さっさと雪路を急いで行きます。何時かさし始めた月の光に、網代の笠を仄めかせながら、……それぎりわたしは二年の間、ずっと甚内を見ずにいるのです。(突然笑う)「甚内は貴様なぞの恩は受けぬ」……あの男はこう云いました。しかしわたしは夜の明け次第、甚内の代りに殺されるのです。

同上

 殺されてやる。貴様への復讐の為、殺されてやる。
 命とは、生死が問題なのではなく、どう使うかが問題なのだ。命は、意志を具現する手段である。世界の有限性と、意志の不自由さを自覚し、結果を選ぶのではなく、結果を創造するのだ。それが、自分の生きた証となり、死後の世界を旅する切符となる。
 他者の世界から身を引いて、自分それ自身を意識せよ。それが見つかるまで、そしてそれが消えていくまで、意識し続けよ。有限の世界を脱し、無限を経験し、新たに無限の有限を創り出せ。死んでも消えないもの、それは意志。意志は無限化された有限の概念として、永遠を彷徨し続け、沢山の世界を生み出していく。
 殺されてやるという意志の前で、もはや命は問題ではない。意志だけを、世界を動かさんとする、意志だけを見よ。

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