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【随想】太宰治『帰去来』

人の世話にばかりなって来ました。これからもおそらくは、そんな事だろう。みんなに大事にされて、そうして、のほほん顔で、生きて来ました。これからも、やっぱり、のほほん顔で生きて行くのかも知れない。そうして、そのかずかずの大恩に報いる事は、おそらく死ぬまで、出来ないのではあるまいか、と思えば流石に少し、つらいのである。

太宰治『帰去来』(短編集『走れメロス』)新潮社,1967

車中の乗客たちの会話に耳をすました。わからない。異様に強いアクセントである。私は一心に耳を澄ました。少しずつわかって来た。少しわかりかけたら、あとはドライアイスが液体を素通りして、いきなり濛々と蒸発するみたいに見事な速度で理解しはじめた。もとより私は、津軽の人である。

同上

 私は立って、廊下へ出た。廊下の突き当りに、お客用のお便所がある事は私も知ってはいたのだが、長兄の留守に、勝手に家の中を知った振りしてのこのこ歩き廻るのは、よくない事だと思ったので、ちょっと英治さんに尋ねたのだが、英治さんは私を、きざな奴だと思ったかも知れない。私は手を洗ってからも、しばらくそこに立って窓から庭を眺めていた。一木一草も変っていない。私は家の内外を、もっともっと見て廻りたかった。ひとめ見て置きたい所がたくさんたくさんあったのだ。けれどもそれは、いかにも図々しい事のようだから、そこの小さい窓から庭を、むさぼるように眺めるだけで我慢する事にした。

同上

 家というのは不思議なもので、住む者が居ないと例え新築であろうとどんどん朽ちていく。手を触れずに放置しておくよりも、数十キロの肉と脂の塊が埃や雑菌を撒き散らしながらどすどす歩き廻っている方がずっと家は元気で居る。
 精気というものはやはりあるのだろうか。生命を持たぬ筈の家屋が、そこに人を住まわせ住人の精気を吸うことで自身の健康を保っているように見えるのは、擬似生命現象とも言うべき一種の驚異である。
 久方ぶりに戻った実家が妙によそよしく感じるのは、そこに自分の精気が無いからではないだろうか。でもすぐに昔のように馴染めるのは、家がこの精気の持ち主を思い出し受け入れてくれるからではないだろうか。

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