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【随想】芥川龍之介『煙草と悪魔』

 そこで、悪魔は、いろいろ思案した末に、先園芸でもやって、暇をつぶそうと考えた。それには、西洋を出る時から、種々雑多な植物の種を、耳の穴の中へ入れて持っている。地面は、近所の畠でも借りれば、造作はない。その上、フランシス上人さえ、それは至極よかろうと、賛成した。勿論、上人は、自分についている伊留満の一人が、西洋の薬用植物か何かを、日本へ移植しようとしているのだと、思ったのである。
 悪魔は、早速、鋤鍬を借りて来て、路ばたの畠を、根気よく、耕しはじめた。
 丁度水蒸気の多い春の始で、たなびいた霞の底からは、遠くの寺の鐘が、ぼうんと、眠むそうに、響いて来る、その鐘の音が、如何にも又のどかで、聞きなれた西洋の寺の鐘のように、いやに冴えて、かんと脳天へひびく所がない。――が、こう云う太平な風物の中にいたのでは、さぞ悪魔も、気が楽だろうと思うと、決してそうではない。
 彼は、一度この梵鐘の音を聞くと、聖保羅の寺の鐘を聞いたときよりも、一層、不快そうに、顔をしかめて、むしょうに畑を打ち始めた。何故かと云うと、こののんびりした鐘の音を聞いて、この曖々たる日光に浴していると、不思議に、心がゆるんで来る。善をしようと云う気にもならないと同時に、悪を行おうと云う気にもならずにしまう。これでは、折角、海を渡って、日本人を誘惑に来た甲斐がない。――掌に肉豆がないので、イワンの妹に叱られた程、労働の嫌な悪魔が、こんなに精を出して、鍬を使う気になったのは、全く、このややもすれば、体にはいかかる道徳的の眠けを払おうとして、一生懸命になったせいである。

芥川龍之介『煙草と悪魔』(短編集『奉教人の死』)新潮社,1968

 例えば都心に生まれ育った人でも、まだ山頂に残雪を戴く山麓に広がる畑を見て、冬の冷気が去った水田に燦めく陽光を見て、畦道に伸びるツクシやフキノトウを見て、春風にふわふわ揺れる白や黄色の蝶を見て、この国の美しさを、心に想起される原風景との重なりを、感じない人はいないのではないだろうか。あの胸の安らぎは、湧き上がる喜びは、日本人でなければ感じ得ないものなのだろうか。あの風景、あの空間の中に居て、邪念を逞しくする事なんて、それこそ悪魔でも出来ないだろう。この星の生命の強さ、美しさ、その象徴たる絵が、日本の原風景とぴたりと一致する、それは奇跡以外の何物でもない。この日本という島々はきっと、自らが住まう場所として、神々が創った箱庭なのではないか、そう思うのは傲慢だろうか。

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