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【随想】芥川龍之介『おしの』

「わたくしの夫、一番ヶ瀬半兵衛は佐佐木家の浪人でございます。しかしまだ一度も敵の前に後ろを見せたことはございません。去んぬる長光寺の城攻めの折も、夫は博奕に負けました為に、馬はもとより鎧兜さえ奪われて居ったそうでございます。それでも合戦と云う日には、南無阿弥陀仏と大文字に書いた紙の羽織を素肌に纏い、枝つきの竹を差し物に代え、右手に三尺五寸の太刀を抜き、左手に赤紙の扇を開き、「人の若衆を盗むよりしては首を取らりょと覚悟した」と、大声に歌をうたいながら、織田殿の身内に鬼と聞えた柴田の軍勢を斬り靡けました。それを何ぞや天主ともあろうに、たとい磔木にかけられたにせよ、かごとがましい声を出すとは見下げ果てたやつでございます。そう云う臆病ものを崇める宗旨に何の取柄がございましょう? 又そう云う臆病ものの流れを汲んだあなたとなれば、世にない夫の位牌の手前も伜の病は見せられません。新之丞も首取りの半兵衛と云われた夫の伜でございます。臆病ものの薬を飲まされるよりは腹を切ると云うでございましょう。このようなことを知っていれば、わざわざ此処迄は来まいものを、――それだけは口惜しゅうございます」

芥川龍之介『おしの』(短編集『奉教人の死』)新潮社,1968

 言葉を用いた説教など、熱を纏ったリアルな生き様に比べれば、ままごとのようなものだ。人は言葉によって世界を知るが、言葉は認識の表面的発露に過ぎない。人の世界を世界足らしめるものは、言葉ではなく、言葉の根源たる認識である。ある説教が心に響かないとすれば、その説教は世界の根源的認識に基づいていない、空虚な言葉遊びなのである。他人を動かすのは言葉ではない、言葉の中に潜んで他人の心に入り込み、その者に未知の世界を想起させる熱のようなエネルギーなのだ。

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