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【随想】芥川龍之介『黒衣聖母』

「どうです、これは」
 田代君はこう云いながら、一体の麻利耶観音を卓子の上へ載せて見せた。
 麻利耶観音と称するのは、切支丹宗門禁制時代の天主教徒が、屢聖母麻利耶の代りに礼拝した、多くは白磁の観音像である。が、今田代君が見せてくれたのは、その麻利耶観音の中でも、博物館の陳列室や世間普通の蒐集家のキャビネットにあるようなものではない。第一これは顔を除いて、他は悉く黒檀を刻んだ、一尺ばかりの立像である。のみならず頸のまわりへ懸けた十字架形の瓔珞も、金と青貝とを象嵌した、極めて精巧な細工らしい。その上顔は美しい牙彫りで、しかも脣には珊瑚のような、一点の朱まで加えてある。……
 私は黙って腕を組んだ儘、暫くはこの黒衣聖母の美しい顔を眺めていた。が、眺めている内に、何か怪しい表情が、象牙の顔の何処だかに、漂っているような心もちがした。いや、怪しいと云ったのでは物足りない。私にはその顔全体が、或悪意を帯びた嘲笑を漲らしているような気さえしたのである。

芥川龍之介『黒衣聖母』(短編集『奉教人の死』)新潮社,1968

 求めよさらば与えられん。しかし求めたものが、どのような形で与えられるかまでは分からない。求める心は心を変え世界を変える。世界の見え方を、世界との関わり方を、世界への期待を、世界から得る感情を、変える。求める前に見えていた形と、求めた後に見えている形は自ずから異なる。それはつまり、望みが望み通りに与えられたとしても、与えられた時には既に希望にかなう形ではなくなっているかも知れないという事だ。それに、そもそも望みが望まれるべきものとは限らない。望みが自分を満たすかどうかは、自分では決して分からない。求める行為が自分や世界をどう変えるかなど、誰にも分かりようがないのだから。求めよさらば与えられん。その真意は、世界が人を満たすのではなく、人が世界を満たすという事だ。

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