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【随想】太宰治『酒の追憶』

 それがいまでは、どんなものか。ひや酒も、コップ酒も、チャンポンもあったものではない。ただ、飲めばいいのである。酔えば、いいのである。酔って目がつぶれたっていいのである。酔って、死んだっていいのである。カストリ焼酎などという何が何やら、わけのわからぬ奇怪な飲みものまで躍り出して来て、紳士淑女も、へんに口をひんまげながらも、これを鯨飲し給う有様である。
「ひやは、からだに毒ですよ。」
 など言って相擁して泣く芝居は、もはやいまの観客の失笑をかうくらいなものであろう。

太宰治『酒の追憶』(短編集『津軽通信』)新潮社,1982

 酒が理性を緩めるのは確かだ。しかし何故大抵の人間は酒に酔うとだらしなくなるのか。酩酊時に見せる言動とはつまり我慢の無い言動である。理性とは畢竟我慢がその本質なのだろうか。酒を飲むと平常の思考力を失ってしまうというのはよく考えてみると恐ろしい事である。馬鹿になる? 少なくとも計算能力や判断能力は間違いなく低下する。決断力はどうか、これはむしろ強化されるようだ。人は酔うと大胆になる。然るに決断とは判断の停止なのだろうか。
 人の思考は重層構造になっているようだ。欲求の層があり、欲求を抑える抑制層があり、必要な抑制の度合いを計算する状況判断層がある。やって良い事と悪い事は状況により異なる。欲求が解放されるには様々な層による選択と峻別をパスしなければならない。脳、肉体、或いはその両方はそれを瞬時に為し、しかも休み無く死ぬまで一生その作業をし続けるのだ。流石に大変であろう。酒はその作業を半ば強制的に簡略化する。謂わば脳たちを無理矢理休ませる。彼らには休みが必要である。睡眠が休みになるとは限らない。何故なら人は夢を見る。心臓は、すまないが頑張り続けてくれ。君だけは休ませる訳にはいかない。酒飲みはこうした屁理屈をいつでも考えている。罪悪感に打ち勝つ為に、いやむしろ罪悪感を楽しむ為に。全く性質が悪い。

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