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『人間不平等起源論』を読む(4)

 ルソーの『人間不平等起源論』を、これまで3度にわたって読んできました。今回が最終回です。

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『人間不平等起源論』を読む(1)

『人間不平等起源論』を読む(2)

『人間不平等起源論』を読む(3)


貨幣 = 富を表わす記号

 ルソーは、貨幣と富に関する分析を始めます〔注1〕。貨幣とは、富を表わす記号だというのです。しかし、ルソーは、一見してそれほどたくさんのページを割いてこの主題について分析しているわけではないので、私たち読者は特に何も考えずに読み過ごしてしまいそうですが、実は結論へたどり着くために重要な主張が隠れているのが、この箇所なのです。

 なぜこのように言えるかというと、貨幣と富に関する分析の少しあとで、不平等の進歩について述べる箇所があるのですが、その不平等の発展過程に、富が関係しているからなのです。


不平等の進歩

 では、不平等はいかにして進歩していくのでしょうか。ルソーはその進歩を3つの段階に分けて考えています。

法律と所有権の成立がその第一期であり、為政者の職の設定が第二期で、第三の最終期は、合法的な権力より専制的な権力への変化であったことが見出される。(p.256)

それぞれ、第一期では「富める者と貧しき者の状態」が、第二期では「強者と弱者の状態」が見出され、最終期では「支配者と奴隷の状態」が認められます。


第一期:法律と所有権の成立

 まず、第一期から見ていきます。

 私たちはお金を得るために働きます。そして、そのお金は生活するために必要なものを購入する手段として、欠かせないものです。したがって、当然のことながら、お金を持っていないよりは持っている方が良いに決まっています。しかし、いつ自分の富が簒奪されるかわからない、そんな世の中では、富める者も貧しい者も、決して安全ではない、とルソーは言います。そこで、前回引用したような提案を、富める者がするのです。いま一度引用します。

弱い者たちを抑圧から守り、野心家を抑え、各人に属する所有物を各人に保証するために、団結しよう。すべての人が従わなければならず、だれも例外とはならず、強力な人も弱い人もおたがいの義務に従わせることによって、とにかく運命の気まぐれを償う、正義と平和の規則を定めよう。要するに、われわれの力を、われわれ自身に向けないで、賢明な法によってわれわれを支配し、協同体すべての成員を保護し、守り、共通の敵をはねのけ、永久の和合のなかにわれわれを維持するような一つの最高の権力に集中しよう(p.246)

粗野でおだてに乗りやすい人々は、「だれもが自分の自由が保証できると思って、自分の鉄鎖のまえに駆けつけ」(p.246)るのです。これが、ルソーに言わせれば、社会と法律の起源なのです。

 こうして出来上がった社会は、次なる社会の成立を促します。「団結した力に立ちむかうためには、自分たちもまた団結しなければならないから」(p.247)です。

 なお、ここでルソーは、自分がここで主張していることは、いわゆる「社会契約説」の論者たちが主張する内容とは違うぞ、ということを示すために、彼らを批判しています。少し見ておきましょう。

 ある人々は、「最も強い者の征服や弱い者の団結を主張」(p.248)していると言います。前者がホッブズ、後者がダランベールです。

 ホッブズの主張は、

征服の権利は権利ではないので、いかなるほかの権利をも創設できないのは、征服者と征服された人民は、ふたたび完全に自由にされた国民が進んで征服者をその首長に選ぶのでないかぎり、つねにおたがいに戦争状態にとどまる(p.248)

という点で誤っています。

 また、ダランベールの主張は、

「強い」および「弱い」という単語が曖昧であり、私有権あるいは最初の占有者の権利の確立と政治的な支配の確立とのあいだにおいて、この用語の意味は「貧しい」および「富んだ」という用語によるほうがよく当てはまる(p.248)

点で、やはり誤っています。


第二期:為政者の職の設定

 でき始めたばかりの社会は、その必要に応じて、若干の合意だけから成り立つので、組織としては脆弱なままにとどまったのではないか、とルソーは考えます(p.249)。そこでは容易に違反者が処罰を避けることができ、法がさまざまな仕方でごまかされたに違いありません。

 そこで、次第に不都合と無秩序がたえず増加していったとき、数人の個人に、公共の権威を担ってもらおう、そのために人民は議決をし、その議決を遵守させる職業として「為政者」を置き、彼らをその公共の権威の担い手にしようではないか、と考えるのが、自然な発想だ、とルソーは続けます。

 つまり、

したがって、かけがえのないものを保存するために首長の助けを必要としていたのに、それを首長の手のなかへまず渡してしまうのは、良識に反したことではなかったであろうか。そのように立派な権利を譲り渡す代わりに、それと同等のいかなるものを、首長は与えることができたであろうか。(p.249)

と、ホッブズの『リヴァイアサン』を批判するのです。

 実際、人民は、「自分たちを隷属させるためではなく、自分たちの自由を守るため」(p.249)に為政者を置いたのでした。このことを、プリニウスの言葉を引用して、ルソーは繰り返します。

我々が主君を持つとすれば、支配者を持たないようにしてもらうためである。

これが、議論の余地のない、あらゆる政治的権利の基本的な原理なのです。


第三期:合法的な権力から専制的な権力への変化

 さて、ここまでで見てきた通り、自分たちの自由や生命、権利を守るために為政者を置いたのでした。

 しかし、それらを守るために作られた政府は、やがて腐敗していき、その極限においては、それら権利や自由をないがしろにする専制的な権力へと堕していくのです(p.253)。

 そもそも、為政者は、人々の議決によって委任された存在でした。現代風に言えば、政治家は選挙で選ばれた人民の代表である、という感じでしょうか。ならば、為政者は、自分に任されている権力をただ委託してくれた人民の意向に従って行使して、人民がその所有するものをいつも平和に享受できるように保証し、あらゆる機会に為政者自身の利益よりも公共の役に立つことを選ぶ義務を負っているはずです(p.254)。しかし、為政者の野心が暴走して、自分たちの地位をその家族の中に永続化しようとするに至って、人民は次第に従属と休息の安楽に慣れていき、その鉄鎖を断ち切ることができなくなっていくのです。

 こうして、政府は腐敗し、為政者と人民は「支配者と奴隷」の関係へと落ちてゆくのです。


不平等の果てに・・・

 しかし、ルソーは、こうした最後の段階は、「必然的」に起こる、と言います。富は「もっとも直接的に安楽のために役立ち、渡すのが最も容易である」(p.258)ために、身分や地位、権力、能力で評価される社会では、万人共通の「記号」として、その人自身の優劣を測る基準になるからです。

 現代に目を向けてみれば、高級なブランドものを見境なく欲しがる(あるいはうらやましがる)人がいることに気が付きませんか?もちろん、高級ブランドの製品が、とても高品質であることは否定しません。ですが、その持ち物で、持ち主の価値を測る人がいるのも事実です。

 一昔前までは(今もそうなのかもしれませんが・・・)、軽自動車に乗っている男性は、「ダサい」「あり得ない」「付き合いたくない」「モテなさそう」「仕事ができなさそう」など、散々な言われようでした。別に、軽自動車を乗っている人が、「ダサい」わけではないし、「モテない」わけでもないし、「仕事ができない」わけでもないはずです。高級な自動車や外国車に乗っている人でも、ダサくて、モテなくて、仕事ができない人はいます。でも、そんな当たり前のことであっても、実際に、目の前に軽自動車に乗る男性と高級な自動車に乗る男性が現れたら、高級車の人のほうが、「素敵」と感じるのではないですか?

 それもそのはず。高級車に乗れるだけの財力があるということは、それだけ社会で「成功」している存在だ、と誰しも自然に思うに決まっています。その「社会での成功」の基準は、ひとえに「お金」(=富)なのです。

 また、綺麗で高級な服を身にまとう女性のほうが美しく、高い化粧品を使っている女性のほうがモテる・・・のでしょうか?断じてそんなはずはありません。

 なぜこんなことを長々と話すのか、と思った方もいるかもしれません。理由のひとつは、私が驚くほどモテないから、ということもあるのですが・・・それはさておき、まじめな理由としては、ルソーが次のように言っているから、現代の例を示そうと思ったのです。

身分と財産の極端な不平等、情念と才能の多様性、無益な技術、有害な技術、軽薄な学問から、理性にも幸福にも徳にもひとしく反する無数の偏見が出て来るであろう。(p.259)

これは、ルソーが、不平等の先に描かれる社会、として書いていることなのです。こうして読んでいくと、この文章は、そのまま私たちのことを言っているのではないか、とすら思わされます。

 もう一つ、ルソーの言葉を引用します。

専制君主が口をきくやいなや、意見を参照すべき誠実さも義務もなく、このうえない盲目的な服従だけが、奴隷たちに残されている唯一の美徳なのである。(p.260)

 いや、別に専制君主の言うことに盲目的に服従してなんかないよ、と思った方は、甘い。この専制君主を、「社長」や「上司」に置き換えて、「奴隷」を社畜に置き換えてみたら・・・いかがでしょうか。

 お金を稼ぐために私たちは働く、そして、そのためには上司の言うことをとにかく聞かなければならない・・・。そして、上司の言うことを「はいっ!」と聞いて、何時間も残業して、なけなしの給料を得る。そしてそれを職場の同僚や職場外の友人に「苦労話」として「まったくウチの会社ってさぁ・・・」と愚痴をこぼす。これが、奴隷たちの美徳だ、といわれているような気がします。

常に活動的で、汗を流し、動き回り、ますます骨の折れる仕事を求めてたえず苦しみ、死ぬまで働き、生きることができるようになるために死に向かうこともあり、不滅の名声を得るために生命をあきらめるし、憎んでいる身分の高い人間や軽蔑している金持ちにお世辞を言い、そうした人々に奉仕するという名誉を得るためにどんなことでもするし、自分の卑しさと彼らの保護を得意になって自慢し、奴隷状態を誇りにして、それを共にする名誉をもたない人々を侮辱して語る・・・。(p.261)

こうして、人々は「すべてが外観だけ」(p.262)の存在になって、「すべての個々人が、無であるからふたたび平等になり、臣民には支配者の意志以外にはもう法律がなく、支配者には自分の情念以外の規則がなく、善の観念と正義の原理がふたたび消えてしまう」(p.260)新たな自然状態へと落ち込んでゆくのです。すなわち、不平等の行く末には、腐敗して枯れ切った自由なき平等」が、姿を現わすのです。


(~おしまい~)


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本文中に〔  〕で示した脚注を、以下に列挙します。

〔注1〕貨幣と富に関する分析は、『ルソー全集 第四巻』原好男訳、白水社、1978年、244-246頁で展開されます。なお、以下において、本記事内で特に断りなく頁数だけが示されている場合は、ここにあげた白水社版『ルソー全集 第四巻』の頁数を示しているものとします。本文中に( )で示されている頁数も基本的には同様ですが、その場合、本文執筆のために、当該頁の内容を要約して記述しているものとみなされますので、御了解ください。

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