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競争って、いいことばかりじゃない

タイトルだけで見れば、いかにも平和主義者INFPらしい、とか思う人もいそうだが、かくいう筆者は、これまで何度かは競争環境に身を置き、それなりに努力してきている。学校の成績争い、吹奏楽コンクールの結果争い、受験戦争、学生団体での活動など、さまざまな競争で勝利や敗北を味わった。現在も株式会社に所属している以上、市場競争とは切っても切れない関係にある。とはいえ、結局根は平和主義者であり、私自身、競争環境ととても肌が合わない、と痛感している次第である。


ただ、所詮自称INFPの戯言でしかないのは確かだが、それなりに思うところがあり、多くの人に考えていただきたいと思う話が今回である。市場の根本原理ともなっている「競争」、行政が運営していた事業を民間委託して、市場競争原理を働かせよう、あるいは学校区の選択の自由度をあげ、競争原理を働かせよう、などという言葉で聞く「競争」。これに疑問を呈したい。

学校の徒競走

せっかくnoteにいい画像があったので、その話から行こう。学校の徒競走である。大半の日本人は経験したであろうこの徒競走であるが、子供たちは一等を目指して懸命に頑張る、おなじみの競技である。一等になれば、クラスの人気者となり、景品を獲得し、場合によってはモテモテになる、なんてこともあるのだろう。先に断っておくが、筆者の運動神経が悪かったからといって僻みに来たわけでは決してない。(ちょっとある)ただ、数年前になるだろうか、日本の学校教育の視察に、教育先進国北欧の専門家が来た際、日本の体育として徒競走が行われているのを見て、「これはひどい」と酷評だったそうである。体育・運動という、健康促進、人生の豊かさの向上のために必要な科目であるのに、スポーツ、競争など、勝敗を決するものばかりを子供の頃から行っているのである。良い成績を収めた子供にとってはなんてこと無いが、運動な苦手な子たちにとっては、更に運動を嫌うようになっていくだけなのである。正直社会的意義としてどうなのだろうか。
筆者に言わせてみれば、子供の頃からいきなり勝敗で競わせるのは非常に良くないと考える。運動神経というのは、両親の遺伝子に加え、5歳までの遊び方で大きく左右される、という話もある。スタートラインが平等ではない状態から、結果を残したものだけが評価をされる。筆者のように、評価を得られなかった者も、ただ落ち込んでいるばかりではなく、「次は勝ってやる」と火が付く者もいるかも知れないが、生まれてすぐからついてしまっている体力の差を詰めるのは、小さい子供にとってはかなり酷な所業である。そして負けることが当たり前となり、「負け癖」により自己肯定感、自己効力感などはだだ下がりであろう。全員が全員そうではないかと思うが、体育が昔から得意な人たちだけが体育で評価され続け、体育が昔から苦手な人達は、運動が絡むたびに不安が襲い、より運動を遠ざけてしまうのだろう。

競争し過ぎな社会

社会において「競争」はたくさんあり、切っても切り離せないとはいえ、子供の頃から競争ばかりの環境に身を置くのはどうかと思う。学校においては、体育に限らず、テストの成績、部活動の成績、学校自体のランク付け(偏差値や部活動実績)など、競争に溢れている。音楽や芸術でさえも、授業態度を見るならまだしも、テストや技能で点数がつき、成績に影響する始末である。学校で生活しているだけで、さまざまな競争の環境に置かれる。
社会に出てからも、競争は強くつきまとっていく。就活の競争、サービスをリリースするにも、質の競争、価格競争、広告競争、社内での成績、営業競争、派閥争いなど、さまざまな競争に身を置くことになる。SNSが普及し、他人の生活と自分の生活を比較できるようになってしまってからは、幸せな生活競争、なんなら誰が一番不幸なのかすら競争するような始末である。
芸術の振興や、新しいビジネスの発掘にしても、コンクールの開催や、ビジネスコンテストの開催など、競争がどんどん増えていくような時代にもなっている。
社会で生きているだけで、競争に身を置くことからは逃れられなくなってしまっており、数ある競争の結果を持って、人の価値を考えるような輩も少なくない。筆者のような平和主義者からすれば、息苦しくて仕方ない社会になってしまった。他にも、社会で生きづらさを抱えている人たちは何かしらの競争によって生きづらさを増幅させてしまった人もいるのではないだろうか。

もちろん競争のメリット、いい競争もある

ここまで平和主義者の思うがままに、「競争」をこき下ろしてきたが、もちろんこれまで「競争」原理が社会で認められてきた理由、メリットは大いにある。その最たるものは、「質の向上」ではないかと思う。
価格競争やサービス向上の競争により、効率化や産業革命が起こっていき、今の我々のネットワークの世界、質の高い日常生活、コミュニケーションがとれる社会が生まれたのである。そこは間違いない。先に上げたように、ビジネスコンテストが行われることに寄って、資金がまだない優秀なビジネスの卵たちが、切磋琢磨することによって、本当に社会で評価されるビジネスの創出ができるのである。芸術のコンクールについても、出場者が切磋琢磨することにより、人類にとって高度な芸術表現を追求していくことができるのである。こうした「競争」に助けられたことは否めない。

競争への不本意な参加

では、改めて徒競走にもどり、その問題点を考え直したい。もちろん徒競走も、運動が得意な子達にとっては、走力をつけるきっかけになったり、運動能力に自身を持ってもらう重要な機会かもしれない。しかし、運動音痴を代表して言わせてもらえば、「公教育じゃない別のところでやってくれ」と言いたい。残念ながら、当時の体育の授業を思えば、筆者にとってはいい迷惑でしかなかったように感じる。徒競走以外にも、世の中には、不本意な参加を強制する「競争」によって、悪影響が出ていることもあるように感じる。高校・大学に深く根付いた「偏差値」という概念は、いまだ社会に出る前までの「学歴」評価として残っており、子どもたちに人生を大きく左右するような数値として過大なプレッシャーを与えているように感じる。この競争が過大になることにより、「成績さえ良ければ何でもいい」、あるいは「成績はもう良くならないから諦めた」など、様々な理由により、教育の本来の目的、人格の形成に必要な学力以外の倫理や社会性を身に着けようとしない者も出てきてしまう。不本意に「競争」への巻き込みは、敗者に立たされたときの行動に問題が出やすいのではないかと考える。

勝ちループと負けループによる格差

こうした不本意な競争への参加は、特に強者は確かな自信と報酬の獲得により、さらなる強みへ進んでいき、敗者は劣等感を植え付けられ、さらに強者との差は開いていく。「勝ちループ」と「負けループ」が生まれ、二極化が進みやすい。我々が不本意に産み落とされた「資本主義社会」について言えば、格差の拡大である。それを矯正するはずの民主主義政治だが、政治とカネの問題にあるように、権力や立場を守るために、カネをくれる人たちの御用聞きに徹する犬と化してしまっている。「勝ちループ」に入っている人たちに都合の良い社会がより進んでしまっているのである。

みんな余裕をもてたらいい

ただこうした「勝ちループ」に入り、格差を広げるだけにしまった人たちの気持ちも多少わかる。みんな自分自身や、自分自身の子孫だけを守るので精一杯である。人間は一度質の高い生活を味わってしまうと、そこから積極的に生活の質を落とすことは非常に難しい。私も、もう学生時代住んでいたような壁の薄く、断熱性の極端に低い家には住みたくない。とはいえ、格差の広がった悲惨な社会を自分の子孫に見せたいのか、と言いたいのはやまやまである…
少しそれたが、競争の激しい資本主義社会において、勝ち組になれた人間の正解の行動が、勝ち組で有り続けるために社会の仕組みを変えないことであるのは間違いなく、モノカネ主義の現在ではある意味仕方のないことなのである。その状態から改善していくにはどうしていけばいいのか、みんな少し余裕を持って、無駄な競争をやめればいいんじゃないかと思っている。
まずは、生存に必要な競争から離れられるようにしていくことだと思う。他人との比較、人生「勝ち組」に見える人たちとの比較から距離を置き、自分が本当に価値をおいている競争や、必要最低限の競争以外から離れられるようにしていくこと。そうすることで、各々のちょっとした余裕が生まれてくるのではないかと思う。そして、そのちょっとした余裕は、みんなそれぞれ自分のため、また、身近な人のために使えるといいのではないかと思う。どうしても個人が重視される社会になってしまっているが、個人や家族だけでどうにかできる問題というのは少なくなってきてしまっているんじゃないかと思う。だからこそ、自分だけ、家族だけではなく、身近な人と持ちつ持たれつの関係を増やしていけるような社会にならないと行けない気がする。

勝ち組を目指すのはやめてよいのでは

ここまでの提言は、あくまでも本当に個人的なものだし、具体的にどうする、っていうのもまだあまりない。ただ、上記まででわかるように、競争社会を勝ち抜いて目指す幸福ではなく、自分の身近な社会の中での幸福を目指すべきではないかと思う。過剰に競争が生まれている現代社会においては、ありとあらゆる能力がどうしても全国レベル、世界レベルで競争にさらされる。競争の規模が広がれば広がるほど、「勝ち」と判定される数は減っていくのである。比較範囲が広ければ、「トップ」の価値がより上がり、みんな「トップ」に近づきたくなるのは当然である。社会が広がるについて、「勝ち組」の幅も狭くなってしまうのではないかと考える。地球全体で社会が広がっていくことは同仕様もない動きだとは思うが、自分でコントロールできる範囲で幸せを目指すべきだと思う。昔の人達がやってた方法ではもう幸せを目指すのは難しいのではないかと思う。

今後は筆者としては、不要な競争を見分け、遠ざけて生きる方法を模索し、挑戦していきたいが、もし伝わってくださった方が居れば、是非考えていただきたいと思う。

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