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還暦を迎えて想うこと

今回は、自分が還暦を迎えて想うことを書いてみることにします…。

気づけば、私も『三度目のハタチ』の最終年です。この表現に、往生際の悪さが滲んでいると思われるでしょうねぇ。いや、滲むどころのレベルじゃなく、ギンギンに老いゆくことへのネガティブが出ています、はい(笑うっきゃないッ!)。

社会福祉士としての活動を開始した40歳の時から、『老いるとは喪失のプロセス』というフレーズを繰り返し使ってきました。当初は古今東西の文献から漁ったフレーズを使うしかなかった私が、初めて世に出したオリジナルの『老い』の定義です。

今にして思えば、80代の人生の大先輩たちに向かって、かなり大胆なことを言っていたと思います。現時点でもまだ『三度目のハタチ』に過ぎない私ですが、20数年前に編み出したこのフレーズは、本当にその通りだと納得しています。

年齢を重ねるごと一日ごとに、いろいろなことが面倒になっていきます。まず、朝起きるのが面倒くさい。シャワーするのが面倒くさい。紅茶を入れるのが面倒くさい。服を選んで着るのが面倒くさい。パソコンでメールを確認するのが面倒くさい。最寄り駅まで歩いていくのが面倒くさい。タクシー呼ぶのも面倒くさい。仕事することだけは不思議と面倒ではないのですが、買い物するのが面倒くさい。ゴミを分別して出すのが面倒くさい。挙句の果ては、ベッドを整えて横になるのが面倒くさい…。もう、生きてることが面倒くさいわけで、ただ笑うしかありません。

理由は簡単です。脳はそれほどではないけれど、身体機能が落ちてきているからです。長いこと人間をやってきたツケは、確実に頭のてっぺんから爪先まで、そして、五臓六腑に溜まっています。還暦の日から始めようと心に誓った三つのS(ストレッチ、スクワット、スキッピングジャンプ)…。いとも簡単に破ってしまいました。元日に、『三度目の21歳』からスタートしようと計画を変更したところです。

ラッキーなのは仕事があることです。私の年齢であれば、もう仕事をしていない人も多いし、せいぜいあと数年で無職になる人がほとんどだと思います。でも私は、38歳の時に本当にやりたいことが見つかって、40歳の時から自分の好きな仕事をやり続けていて、50歳の時に組織というものを脱却していますから、定年なんて関係ないわけです。医者と同様、死ぬまで社会福祉士として生涯現役をまっとうできる可能性があります。

老いる過程では、ふつうなら社会接点がどんどん減っていきます。人と接する機会が減ればコミュニケーションも減っていくし、それに応じて頭を使う機会も減っていきます。なので、二度目のハタチの時も、三度目のハタチの今も、基本的に『老いは悪』だと思っています。アンチエイジング、大賛成です。一時期、「老いは悪」などというと社会の反発を買った時代がありました。そして、歳をとることに抗う『アンチエイジング』ではなく、自分らしくステキに歳をとればいいんだという意味で『ウェルエイジング』なるワードが出てきました。

でも、年齢を重ねるにつれ、アッという間に一年が過ぎて、ひとつ歳をとって、カラダの至るところが日に日に軋んでいくのを実感するようになると、やはり『老いは悪』だと、つくづく思うのです。なので、それこそ死ぬ気で抵抗し続けるしかありませんね。

そうする一方で、人生において絶対に譲れないことがひとつだけあります。子どもたちに迷惑をかけないということ。その一点です。子どもたちには子どもたちの、まもらなければいけないものがあります。仕事、家庭、自分の人生。親がそれを損なうようなことがあっては断じていけません。

仕事柄、大勢の人たちに、最後のさいごまで自分の人生の主役で在り続けようと言い続けています。要介護とか認知症とか重篤な病気とかになってしまったら、主役の座を降板しなければなりません。少なくとも生活と人生の一定部分は、他者に舵を取られることになります。医者、弁護士、ケアマネ、望まない家族…。それでは生きている意味がないと、私は思っています。すべてを自分で意思決定できることこそが、生きていることの証だと考えるからです。そのためにも、脳とカラダを使い続けなきゃ…ですね。

と同時に、子どもたちや大切な人に対しては、迷惑をかけないように段取りをしておくことを忘れてはいけません。別に、どうでもいい人とか地域とか社会とかになら迷惑をかけたっていいかもしれません。ずっと納税してきてるわけですからね。でも、可愛い子どもたちや愛する人にはダメです。

どんなに健康に気をつけながら生きていったとしても、結局は誰かのサポートをもらわなければならない時がやってきます。人間だれしも、人では死んでいけないのです。特に、親子という関係性は縛りがキツい。親子の縁は死んでも切れません。だから無計画に子どもを作ったり、デキちゃった婚したりするのはよくありません。ま、私の価値観では。

そんなことを世間に対して言い続けてきた私ですから、子どもが大学生になったときから、ちょっとずつちょっとずつお小遣いをあげつづけています。これは終活の一環です。この習慣は社会人になってからも、です。そのかわり、死んだときにはほとんど遺産などない予定です。

なお、お小遣いをあげるのは直接、手渡しで、です。この記事では説明は省きますが、ATM送金は絶対にダメです。すべきではありません。そうすればこそ、可愛い子どもたちや愛する人とちょくちょく会えるわけです。大切な人との時間は、前頭葉を活性化して成長ホルモンを分泌させてくれますから、最強の認知症対策になります。

相手にしても、現金をもらえることがわかっていたら、何とか時間を捻出して会いに来てくれます。みんな自分の生活が大変な中、老親にわざわざ会いに来て、一緒に食べたり飲んだりしてくれるのは、お小遣いの力だと私は思っています。孫たちはまだ幼少ですが、10歳になったらお小遣いを手渡していきたいと思ってます。そう考えると、やはり、脳とカラダのトレーニングを義務づけないとマズいですね。あらためて気づきました!

そうしながら、三度目の22歳を迎えるまでに老人ホームに入ります。そうすれば24時間スタッフがいるので、何かがあったとしても発見も早いし、忙しい子どもたちに負担を強いるリスクが減ることは確かですからね。それに何よりも、食事に掃除洗濯ゴミ出しと、すべてやってもらえるわけですから楽チンです。寒いとか暑いとかもないし、大浴場があったりしたら天国です。あと、マッサージも!まぁ、なかったとしても出前を呼べばいいですからね。

可愛い子どもたちや好きな人と頻繁に会って、数年以内には老人ホームに転居して、自分のペースで好きな仕事を続けていく…。そうして三度目の33歳まで、生涯現役をまっとうする。これが私の計画です。

どうしてこんなことを書いたのかと自問自答してみると、これもひとつの終活モデルだからです。ひとつの事例として紹介したわけです。三度目のハタチを迎えた人たちは、脳とカラダが機能しているうちに、エンディングまでの具体的なプランを作って実践していくべきだからです。

そして、そのプランの中にはおカネのことも必ず盛り込まないと意味がありません。いつかは結局、子どもたちや誰かしらの手を煩わせるわけですからね。元気な時に何を考えていたとしても、ボケてしまったら実行できなくなっちゃうんですから!サポートしてもらう人たちに、おカネを渡せなくなっちゃうんですからね。

それでは、自分としても不本意でしょうが、サポートをせざるを得ない側の人たちはもっと困ります。作業だけ強いられておカネの裏づけがないなんて不条理です。やりきれません。死んだ後も、あなたに対してネガティブな感情と記憶だけが残ってしまいます。大切な人たちの胸の内に…。

そんなことを望まないのであれば…。三度目のハタチのみなさん、2024年を終活元年にしようじゃありませんかッ!

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