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#1 あえて貧乏くじを引く生き方

一度もじっくりと語り合う機会を持つことが出来ないまま亡くなってしまった父と、note上で語り合う、いや、一方的に語り掛けるマガジン企画。

インターネット上で自ら情報を発信することをしなかった父や父の世代の人たちについて、なんらかの記録を、note上に残していけたらいいなと思っています。

一回目は、なんだか、貧乏くじを引いてばかりだったような気がする父の生き方について。


父と語れば

お父さんて、なんか、貧乏くじばぁ引きょうたような気がするなぁ~。

お通夜にも、お葬式にも、初盆にも、一周忌にも、日本へ帰れんかったじゃろぉ、コロナの制限で。
じゃけぇ、ニュージーランドで、頭の中に残っとる記憶の隅から隅まで探して、いろいろ思い出しょうたんよ、お父さんのことを。

いつから、お父さんと話をせんようになったんじゃったかなぁとか。
なんで、お父さんと話をせんようになったんじゃったかなぁとか。

お酒をよう飲みょうたことばっかり、言う人もおるけど、脳卒中で倒れた後の、人生の最後の20年間は、飲みょうらんかった訳じゃし、若い頃も、戦後ってゆう時代が時代じゃったし、働き始めるまで、そんなに飲みょうらんかったんじゃないかと思うんよ。
そしたら、人生の半分ぐらいだけよなぁ、お父さんがお酒をのみょうたんは。

お父さん、ちゃんと定年まで勤め上げたし。
定年後も、いろいろ頑張りょうたんよなぁ、教育の為になんかしたいゆうて。去年、ようやく日本へ帰れた時に、読んだんよ、お父さんが倒れる前の頃に書いとった日記。

まぁ、人生、飲みとうなることもあるよなぁ。
子供の頃は分からんかったけど、大人になって、仕事や人間関係や、他にもいろいろ、お酒を飲みとうなることが、私もあったけぇ。勿論、嬉しいことがあって、飲みとうなったこともあったけど。

お父さんと、二人でお酒を飲んだことも、一度もないよなぁ。
一回くらい、一緒に飲みに行って、飲みながらじっくり話をすることがあっても、良かったよなぁ。
お父さん、私がお酒を飲める年になった後、そうしたいと思うたことが、何べんもあったんじゃないん?
うちは、そうゆうふうに、考えることが出来ん娘じゃったなぁ。ごめんなぁ。

正しいことをしょうと思うとる人が、損な立場に追いやられることって、あるよなぁ。なんか、お父さん、そうゆう事ばっかりじゃったんじゃないかって、思うようになったんよ。

他の人がお父さんのことを悪う言うことがあっても、お父さん、人の悪口、言わんかったし。言い訳もせんかったし。

人から聞いた話と、実際にあったことを、頭の中で整理してみたんよ。
そしたら、なんか、「あれっ、お父さんって、結構ちゃんとしとったのに、なんか問題がある度に、責任を押し付けられたりしとった?」とか思うたんよ。

お父さんが書き残しとった古い日記とかを読んで、余計にそう思うたんよ。
話をせんようになるんじゃなくて、うちだけでも、お父さんの味方になって、お父さんの話を聞く立場になるべきじゃったんじゃないかなぁって。
まぁ、小学生のうちには、無理じゃったかも知れんけど、せめて、お酒が飲めるくらいの年になった頃には、お父さんの話を聞いたり、うちの話を聞いてもろうたりするべきじゃったよな。

お父さん、ごめんなぁ。

で、今からでも、なんか出来ることはないかなぁって、考えたんよ。
いろいろ考えて思いついたんは、
あえて貧乏くじを引く生き方」
を引き継ぐこと。

いまどき、なんでもかんでも、損得で考えて行動した方がええみたいなことばっかり耳にするんよ。
利他的より、利己的に、いかに上手く立ち回って、自分に得になる生き方をするかみたいな。
〇〇の為とか言いながら、偽善的な活動がもて囃されとったり。

このままじゃったら、お父さんみたいに、自分からあえて貧乏くじを引くような人は、絶滅してしまうんじゃないかと思うんよ。

じゃけぇ、うちが、引き継いでみる。
あえて損な役回りが出来る人になれるように、頑張ってみる

大丈夫。
お父さんは知っとる思うけど、うちは、昔から、天邪鬼なところがあったじゃろぉ。
じゃけぇ、他の人がせんことをするんが、得意なんよ。

他の人が書かんことを書いたり、
自分より立場が強い人らに対しても、「言わんといけん!」と思うことは、ことばにしてみたり、
お父さんなら引きそうな貧乏くじを、うちも引いてみる

見ようてな、お父さん。

※注…「うち」とは「私」のこと。念のため。

父を語れば

父は、終戦を11歳で迎えた計算になります。
朝鮮半島からの引き揚げ者で、祖父(父の父)の実家がある広島まで、父を含めた子供四人と祖父母(父の両親)の家族六人で、終戦後に引き揚げて来たそうです。
が、直接、その当時の詳しい話を、父から聞いたことはありません。
何才の時に朝鮮半島へ移住し、戦後、どのくらいで日本へ帰って来ることが出来たのかも知りません。

父が亡くなってから、インターネット上で、引き揚げ者に関する情報を調べたのですが、戦後の引き揚げがどんなに大変だったかを知ると共に、引き揚げ者に対する、根強い差別のようなものも、日本国内にはあったと知って、驚きました。

教員になったのは、当時、教員になれば、奨学金を返す必要がなかったから、長男ではなかった父は、そうすることにしたと聞いたことがあります。
が、これも、本人から直接聞いたことはありません。
もしかすると、ただ教員になりたかったから、そうしたのかも知れません。

小学校の教員になった後、しばらくは、広島県の小さな離島の小学校に勤務したようです。
この選択は、貧乏くじとは違うと思いますが、離島を嫌がる若い教員も多かっただろうと思われる中、島の学校に魅力を感じたのか、父は離島から離島へと、一つ以上の離島で、小学校に勤務したようです。

広島県で小学校の教員になった後、父は、言語治療に関して東京で専門的に学ぶ機会を得ました。東京で研修を受けていた頃の手紙が残っていました。
東京での一年間の研修を終えた後は広島へと戻り、小学校に併設されている特殊学級で、言語治療を行っていました。
小学校で言語治療を行っていたことは、私の記憶にも残っています。

東京で見てきた最新の専門的言語治療の環境を、父は、地元にも取り入れたかったらしいのですが、これが、なかなか上手くいかなかったようです。
これも、父から直接聞いた訳ではありませんが、より良い環境で、より多くの子供たちの言語治療を行いたいという父の想いは、当時の地方行政機関には、届かなかったようです。
当時の父より上の年齢になった今、振り返ると、あの頃、父は、職場で、辛い立場に追いやられていたのかも知れないと思います。

他にも、父の両親(私の祖父母)と一緒に暮らすことになったり、父は、家庭内でも、難しい立場に追いやられてしまいました。

私が小学校の高学年になる頃には、既に、父とは全く会話をしていなかったように記憶しています。

父は父で、いろいろな考えがあったのだろうと思いますが、当時は勿論、私が大人になってからも、父があの頃、何を考えていたのか、どんな悩みがあったのか等、私は、父に聞いてみたことがありません。

結局、父の話に、じっくりと耳を傾ける機会を持つことが出来ないままになってしまいました。

父が残した日記や、古い手紙や、学校教育等に関する新聞の切り抜きや、言語治療や教育心理に関する専門書等を見ながら、教育に関して、父の意見を、父の思い描いていた夢を、直接聞いてみたかったなと思いました。
父とじっくり語り合うことが出来たら、良かったなと。

出世にも興味がなく、ただただ、子供たちの家庭教育や学校教育に力を注ぎたいと思っていた父の背景には、子供の頃の引き揚げ体験が影響しているのかなとも思います。
自分自身が経験したようなことを、次世代の子供たちには、絶対にさせたくないと思っていたのだと思います。

父の子供時代と、私の子供時代を比べると、確実に、私の子供時代の方が、より平和で、より豊かで、より自由な将来の可能性を与えられていたと断言できます。
父、そして父と同世代の人たちは、より良い次世代の為の責任を果たしてくれた気がします。

私の子供時代と、現代を比べると、確実に良くなっているとは、断言出来ない気がします。
親不孝をしながら今まで自由に生きてきたからこそ、そろそろ、父の「あえて貧乏くじを引く生き方」を真似て、自分よりも次の世代の為になることを、出来るようになりたいと思う今日この頃です。



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