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#2 書き難いけれど、伝えなければならないことを書く勇気

先月始めたこのシリーズ、実は、書かなければならないことがあると思ったから始めたんですが、どう書けば良いのか、なかなか心が決まらなくて、2本目の記事を書けない状態が続いていました。

関係ない話題の記事や、お題企画への投稿記事を書いては、逃げてばかりいたような気がします。

でも、この記事を書かなければ、次に進めないような気がするので、勇気を出して書いてみることにしました。

父と語れば

お父さん、最後に、Web面会で話した時のこと、覚えとる?
お正月は過ぎとったけど、お正月明けで一番最初にWeb面会の予約が取れた日に、話したろう?
まさか、あれが最後になるとは、思うとらんかったけど。

あの時、
「今年の抱負は何?」
って聞いたん、覚えとる?

お父さん、
小説を書くつもりじゃ
ゆうて、答えたんよ。覚えとる?

「何の小説を書くん?」
ゆうて聞いたら、引き揚げてきた時のことを書くゆうて、言ようたろう。
びっくりしたわ。
お父さん、それまで、そういう話を、自分からしてきたことがなかったけぇ。

〇〇と一緒におったら、ロシア兵が撃ってきてなぁ
ゆうて、お父さん、まるでたいしたことじゃないみたいに、言うたじゃろ。
そういう話をお父さんから聞いたんは、初めてじゃったけぇ、うち、驚いたんよ。

殺されそうになったその時のことを、お父さん、小説に書くつもりじゃったんよなぁ。

お父さんの横におっちゃった施設の人は、お父さんが、どうかなったんかぁゆうて、思っちゃったかも知れんなぁ。
お父さんが引き揚げ者じゃったって、知っとってんなかったじゃろうし、そもそも、戦争や戦後の話とか、あまり知っとってんない世代の人かも知れんし。

歴史はちゃんと伝えんといけんけぇ、ええことじゃ思うよ
ゆうて、うちがゆうたん、覚えとる?

あの日から、お父さんの調子が急に悪うなってしまうまで、何週間かあったよなぁ。
コロナで、ひとりぼっちの部屋で、ひとりぼっちでご飯を食べて、ひとりぼっちで過ごしょうたんよなぁ、お父さん。

小説、書き始める時間はあったんじゃないかなぁゆうて、思うたんじゃけど、何も残っとらんかったなぁ。
お父さん、何か、書きかけたりしとらんかったん?
お父さんが書いた小説、読んでみたかったなぁ。

もしかして、書こうとしてみたけど、思い出すんが辛過ぎて、書けんかったん?
うちが話を聞いて、代わりに書いてあげりゃあよかったなぁ。

教育のことより、戦争の話を書こうと思ようたんは、何でなん?
戦争の話より、教育のことの方が、書き易いよなぁ。
書き難いことを、書こう思うたんは、何でなん?

お父さん、歳を取ってからも、ずうっと、子供の頃の記憶に、苦しめらりょうたんじゃろうなぁ。
家族にも言わんと、思い出しては、ずうっと、辛い思いをしょうたん?

被害者サポートのボランティアとか、長いことしょうたのに、辛い思いをしょうたお父さんのことには、うち、全然気が回らんかったなぁ。
お父さん、気づいてあげられんで、ごめんなぁ。

辛(つろ)うても、書かんといけんと思うたんは、次の世代へ、どおしても伝えんといけんゆうて、思うたけぇじゃろ。
おんなじような思いを、他の子供らに、絶対させちゃあいけんゆうて、思うたんじゃろうなぁ。

勇気を出して、書かんといけん、思うたんじゃろうなぁ。

子供らが安心して暮らせる世の中に、なりゃあええなぁと思うんじゃけど、その為には、どうすりゃあええんか、分からんのんよ。
何について書きゃあええんか、どうに書きゃあええんか、誰に書きゃあええんか、よう分からんのんよ。

お父さんの話を、聞いときゃあよかったなぁ。
そうすりゃあ、お父さんの体験記が、書けたのになぁ。
お父さんと同じような思いを持っとる人から話を聞いて、それを書きゃあええんかなぁ。

ほんまに、どうすりゃあ、世界中の子供らが、安心して暮らせる世の中になるんじゃろう
その為に、うちには、何ができるんじゃろう
お父さん、どうすりゃあええ思う


父を語れば

父と、最後にスカイプによるWeb面会で話した時に、子供の頃、父が兄弟と一緒にいて、ロシア兵に撃たれそうになったという話を、初めて聞きました。

今まで、そんな話をしてきたことがなかったのに、なぜ、突然、父がその話をしたのか、ずっと気になっていました。

ロシアによるウクライナ侵攻の一年以上も前の話です。
ただ、停戦協定が難航したり、いろいろな報道がその当時もされていたようなので、何らかのニュースを見て、子供の頃のことを思い出していたのかも知れません。

また、コロナ禍の真っただ中に、知った人が誰もいない新しい施設に移った後、家族の面会もなく、施設内での他の入居者との交流もなく、ずっとひとりで過ごさなければならなかったと聞いているので、寝ている時に、子供の頃の夢などを見ることが増えて、心の奥に眠らせていた恐怖がよみがえってきていたのかも知れないという気もしています。

はっきりと、いつのことだったかは覚えていませんが、日本へ一時帰国した時に、一度だけ、当時のことを聞いたことがあります。
戦後の大陸に残された日本人の引き揚げが題材となった本を読んだか何か、きっかけがあったと思うのですが、よく覚えていません。インターネットが普及してきたので、あまり深く考えずに、当時の小学校の同級生が探せるんじゃないかみたいなことを聞いたんだと思います。

父は、学校の友達が、ひとり、またひとりと、毎日のように消えていったというようなことを、ポツリと言いました。それ以上の話は、聞くことができませんでした。
友達が次々と、病気等で亡くなったということなのか、先に引き揚げを開始したということなのか、その後、口を閉ざしてしまったので、聞くことができませんでした。

一時期、父が、船に乗ってどこかへ行くという、おかしな話ばかりして困ると言われていたことがあります。大勢でバスか何かで移動して、それから船で、その船が大変で、、、というような話を、まるで、現実にあったことのように話すと。
夢と現実の区別がつかなくなって、認知症が始まったんじゃないかとか、言われていました。

その時は、まったく、思いが及ばなかったのですが、今、考えると、子供の頃の引き揚げの時の記憶が、よみがえっていたのかもしれないと思います。

父は、夜、なかなか眠らないとか、夜起きていて、昼間寝ていると、苦情を言われることも多かったようです。

もしかすると、悪夢を見ることが多くて、夜、眠るのが怖い時もあったのかなぁなどと、今になって考えてしまいます。

私は、事故や犯罪や災害の被害者のサポートのボランティアを9年ほどしていました。仕事では、PTSDを抱える人たちも含め、メンタルヘルスのサポートワーカーをしていたこともあります。
日本の大学では心理学を専攻し、ニュージーランドではメンタルヘルスのサポートワークの資格も取得していました。

娘ではなく、サポートワーカーとしての視点でみると、いろんなことが見えてきた気がします。
少なくとも、私は、父の苦しみに気づくことができたはずだ、気づくべきだったと、今、とても強く思っています。

父の話をじっくりと聞くことで、ほんの少しくらいは、父の気持ちを軽くすることができたかも知れないのにと、後悔しています。

昨年、ようやく日本へ一時帰国出来た際に、父が新聞に投稿して何度か掲載された時の切り抜きが、きちんとまとめてあるスクラップブックを見つけました。
その中に、戦後50年という題材に投稿し、掲載されたものがありました。
「教育の力が一票の重みを左右」というタイトルの父の投稿は、

私は、五十年前、朝鮮半島の日本海沿岸の逃避行を重ねて帰国した引き揚げ者の一人です。空襲も体験しました。目の前で人が射殺されるのも見ました。

みんなの広場 戦後50年 毎日新聞

という書き出しで始まっていました。

この切り抜きを見つけるまで、父は、自分や自分の家族が引き揚げ者であることを、隠したかったんだと思っていました。大陸に置き去りにされた日本の民間人の人たちが、苦労して引き揚げてきた後、いろいろな差別を受けたという話を、どこかで目にしたことがあったので、そうなんだろうと勝手に思っていました。

でも、この切り抜きを見つけて、父は、隠したいと思っていたわけではなかったことがわかりました。

この投稿には、「二度と悲惨な体験をしないために」という父の強い思いが綴られていました。

父と最後に会話をした、あのWeb面会の時に、突然、父が、子供の頃の話をしたのは、虫の知らせかなにかで、先が長くないと悟った父の中で、子供たちが「二度と悲惨な体験をしないために」、伝えなければならないという気持ちが、強くなっていたのではないかという気がしています。

今の世界の状況は、父が一番恐れていたことなのかも知れません

書くことで、何かが変わるかも知れないし、何も変わらないかも知れない。
けれど、多くの人たちが読みたいと思っている文章ではなくて、一人でも多くの人たちに読んでもらわなければならない文章を書くライターでありたいと思います。

誰もが賛同するより収益に繋がる文章より、反発されることがあっても伝えなければならない文章を書く勇気を、私は持ち続けたいと思います。


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