見出し画像

30年日本史00758【鎌倉末期】護良親王の逃避行 野長瀬兄弟

 中津川に現れた玉置の軍勢は500人ほどでした。すっかり囲まれてしまい、追い詰められた護良親王は、一時は死を覚悟し
「私は自害する。私だと分からないよう、面の皮を剥ぎ、鼻を切って捨てよ」
と側近らに命じましたが、そこに3千人余りの援軍が現れます。援軍の大将は
「我らは紀伊国の住人、野長瀬六郎(のながせろくろう)」
「同じくその弟・野長瀬七郎(のながせしちろう)だ」
と名乗り、玉置の軍勢に攻めかかっていきます。玉置の軍勢はかなわぬと見て、散り散りになって逃げていきました。
 護良親王が野長瀬兄弟に
「どうやって我らがここにいることを知ったのか」
と尋ねたところ、兄弟は不思議な話を始めました。なんと、老松(おいまつ)と名乗る少年が
「宮様が小原(奈良県十津川村小原)に向かう道を辿っているが、その途中で災難に遭われる。心ある者はお助けせよ」
と触れて回っていたというのです。これを聞いた護良親王が、肌身離さず持っていたお守りを見てみると、老松明神のご神体(木でできたものでしょう)だけが全身に汗をかいており、足に土がついていたといいます。できすぎた話ですね。
 さて、護良親王が命を落としかけた中津川という場所は、現在の奈良県野迫川村(のせがわむら)にあります。野迫川村自体、離島を除くと日本一人口の少ない自治体(2022年時点で推計349人)であり、相当に過疎化が進んでいるのですが、その中でも中津川は昭和44(1969)年に人口がゼロとなり、消滅してしまった集落なのです。
 今では、廃村マニアが時々訪れてはブログに写真をアップしているような場所なのですが、見てみると相当に険しい山中であることが窺えます。護良親王一行は相当な苦労を経てどうにか幕府軍から逃げおおせたのですね。
 援軍に来てくれた野長瀬兄弟というのは、現在の和歌山県田辺市を拠点とする豪族で、野長瀬家は現在も続いています。野長瀬家からは、近現代には野長瀬晩花(のながせばんか:1889~1964)という日本画家が生まれ、さらに晩花の子・野長瀬三摩地(のながせさまじ:1923~1996)はウルトラマンシリーズの脚本・監督を多く務めたことで知られています。
 野長瀬兄弟という強い味方を得た護良親王は、その後吉野(奈良県吉野町)に潜伏し、やがて再び決起することになるのですが、それはもう少し後で取り上げることになりそうです。

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?