見出し画像

30年日本史00656【鎌倉中期】鳴門中将物語

 後嵯峨天皇は、即位前にわびしい生活をしていたためか、即位後はずいぶん享楽的な生活を送ったようです。「鳴門中将物語」と「古今著聞集」にこんなエピソードがあります。
 あるとき後嵯峨天皇が蹴鞠をしていると、見物人の中に大層美しい女性がいました。その女性に一目惚れした天皇は、蔵人に命じて女性の後をつけさせます。
 しかし女性はふと振り返り、
「帝の命で私をつけているのでしょう。帝に一言、『なよ竹の』と申し伝えてください」
と謎の言葉を残していきました。
 蔵人がこの言葉を天皇に伝えますが、意味が分かる者がおりません。天皇は歌人として名高い藤原為家(ふじわらのためいえ:1198~1275)に使いを出し、意味を尋ねさせました。ちなみに為家は定家の三男です。
 為家の返事によると、
「高しとて 何にかはせむ なよ竹の 一節二節(ひとよふたよ)の あだの節をば」
という歌があり、竹の背は高いけれども、竹の一節二節を見てみると非常に短いものだ」という意味から、「どんな身分の高い人であっても、一夜二夜くらいの関係を結ぶのは嫌です」という意味だといいます。
 天皇は「なんとしゃれた返答だろう」とますますその女性を気に入り、探させます。
 数十日が経って、やっと女性の家が判明し、天皇は歌を書き送ります。
「あだに見し 夢かうつつか なよ竹の おき伏しわぶる 恋ぞくるしき」
(あなたに会ったのは夢だったのか現実だったのか。起きていても寝てもいてもあなたのことを考え、つらい恋に悩んでいます)
という歌です。その女性は実は夫ある身で、困って夫に相談しますが、夫は
「帝に見初められたのだから行って来なさい」
と言って妻を送り出しました。
 妻は天皇からの手紙に「を」と一文字だけ付け加えて送り返します。天皇は意味が分からず困惑しますが、これはかつて藤原教通が小式部内侍に「月」と一文字だけ送って月見に誘った際に、小式部内侍が「を」と一文字だけ付け加えて応諾したという故事にのっとった応諾の返事でした。
 天皇はその女性を寵愛し、夫は「良き妻を持った」として中将に昇進します。「良き妻(よきめ)」が「良き布(よきめ)」に通じることから、質の高いワカメの産地である鳴門(徳島県鳴門市)の名をとって「鳴門中将」と呼ばれるようになりました。現代人にはついていけない価値観ですが、当時の朝廷は性的に開かれたものだったのでしょう。

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?