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30年日本史00161【古墳】丁未の乱 穴穂部間人皇女の退座

 さて、仏教を受容する蘇我氏が、仏教を排撃する物部氏を滅ぼしたわけですが、近年、物部氏の本拠である河内国渋川(現在の大阪府八尾市)に、7世紀前半に寺院があったことがわかり、「物部氏が仏教を弾圧した」というのは後世の創作であった可能性が出てきました。だったら、蘇我氏と物部氏の争いは仏教受容をめぐるものではなく、単なる権力闘争だったということでしょうか。
 まあ、日本書紀は大化の改新後に作られたものですから、その程度の脚色はあったかもしれませんね。
 丁未の乱が終結した後、蘇我馬子と厩戸皇子はそれぞれ、仏の加護に感謝して寺院を建立しました。
 蘇我馬子が建てたのは、法興寺です。法興寺は後に「飛鳥寺(あすかでら)」と名を変え、さらにその一部が奈良市に移転され「元興寺(がんごうじ)」となります。
 一方、厩戸皇子が建てたのは四天王寺です。現在の大阪市天王寺区ですね。
 さて、丁未の乱に関するエピソードで、紹介したいものがもう一つあります。
 故・用明天皇の皇后である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ:?~622)という人物がいました。聖徳太子の母に当たる人です。
 丁未の乱のさなか、この皇女は争乱を避けて丹後へ行っていたのですが、乱が終結して飛鳥へ戻るに当たって、
「この地域の皆さんにお世話になったので、自らの名『間人』を贈りたい」
と述べました。この地域の名称を「間人(はしひと)」にしようというわけですね。
 ところが、住民らは「はしひと」という地名を名乗るのはあまりに恐れ多いとして、「間人」の漢字表記だけをもらって、読み方は「たいざ」と読むことにしました。
 穴穂部間人皇女が飛鳥に戻る(退座する)際にいただいた地名だから、「たいざ」というわけです。
 現在も京都府京丹後市には「間人(たいざ)」という地名があり、カニのブランドで有名です。
 私はたまたま家族で「かに道楽」を訪れた際に、
「最高級の間人ガニ入荷」
というポスターがあるのを見て、
「まひとがに?」
と読んでしまい、母から
「これはタイザガニと読むのよ」
と教わったのを覚えています。しかし母もその語源までは知らなかったようでした。

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