見出し画像

30年日本史00742【鎌倉末期】元弘の乱始まる

 元徳3(1331)年4月29日。大覚寺統の重臣である吉田定房(よしださだふさ:1274~1338)から幕府に対し、驚きの情報がもたらされました。朝廷がまたもや倒幕を計画しているというのです。元弘の乱の始まりです。
 ちなみに「元弘」と改元されるのは8月9日なので、本来は「元徳の乱」と呼ぶべきものと思われますが、古くから「元弘の乱」の名で通っています。
 吉田定房は後醍醐天皇の側近でありながら幕府方に寝返ったということになりますが、不思議なことに、この3年後に後醍醐天皇は吉田定房を重職に登用しているのです。いろいろな解釈があり得ますが、倒幕計画の発覚が必至となったためあえて定房の方から密告し、天皇を守ろうとしたのかもしれません。
 定房が密告する前から、幕府の方でも情報はつかんでいました。天台座主となった天皇の三男・尊雲法親王が、連日延暦寺の僧兵を集めて軍事演習を行っているという情報です。明らかに幕府打倒のための演習でした。
 5月11日。幕府は高時を呪詛した疑いで、天皇の側近であった僧3名を捕縛しました。真言宗の文観(もんかん:1278~1357)、浄土宗の忠円(ちゅうえん)、天台宗の円観(えんかん:1281~1356)の3名です。
 文観は否認していましたが、拷問の末に罪を認めます。一方、忠円は臆病者で拷問の準備をしていた段階で自白してしまいます。最後の円観については、拷問の準備をしていたところ、座禅を組んだ姿が突然不動明王の姿に変わったため、肝をつぶした武士らは拷問をやめたとの伝説が残されています。結局、3人の僧は全員流罪となりました。文観は硫黄島(鹿児島県三島村)、忠円は越後、円観は陸奥です。
 この3人のうち、中心人物であった文観については、「真言立川流(しんごんたちかわりゅう)という邪教の僧であった」との伝説が流布されています。その伝説によると、真言立川流とは「男女の性交によって大日如来と一体となれる」との教義に基づき、本来戒律で禁止されている性交や肉食を行い、精液と愛液の混合したものを塗りたくった髑髏(どくろ)を本尊として祈祷を行うというものです。もしそんな宗教が実在していたとしたら、いかにも邪教といわれそうですね。
 しかしこれは史実ではなく、後に北朝の人間が後醍醐天皇とその側近を貶めるために流した噂でした。「真言立川流」という宗派はかつて実在したようですが、実際には性交や肉食とは無縁な宗派でしたし、そもそも文観は真言立川流ですらありませんでした。
 この流言はかなり長い時間をかけて浸透し、今でもフィクション作品における文観は邪教の僧として登場することが多いようです。大河ドラマ「太平記」で、Vシネマ俳優にして暗黒舞踏家として有名な麿赤児(まろあかじ:1943~)が文観を演じていたのも、こうした伝説の影響のためでしょう。

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?