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30年日本史00666【鎌倉中期】宝治合戦 時頼の意図*

 吾妻鏡の記録に則って宝治合戦の流れを見てきましたが、なおも疑問が残ります。それは、「北条時頼は真に戦を避けようと努めていたのか」という点です。
 まず、時頼が泰村の次男・駒石丸を養子に迎えたことについては、縁戚関係を築くことで融和を図るためとも考えられますが、
「体のよい人質であって、むしろ三浦に対する脅迫だ」
と捉えることもできます。
 さらに、時頼が喪に服すため三浦邸に滞在した理由についても、「三浦の動向を探るため」あるいは「因縁をつけて三浦討伐の理由を作り出すため」といった解釈も可能です。事実、時頼の滞在中に三浦が武装していたということが討伐の理由になったわけですから、あり得ないことではありません。
 さらに、平盛綱を派遣して敵対的意図がないことを伝えたのに、その直後に攻撃を加えている点については、意図して騙し討ちをしたものと捉えられても仕方がありません。
 一体、時頼は三浦との戦いを進めたかったのか、はたまた避けたかったのか、今後の研究が待たれるところです。
 さて、三浦滅亡から一夜明けた宝治元(1247)年6月6日、三浦泰村の妹婿である千葉秀胤(ちばひでたね:?~1247)に対しても追討命令が発せられました。翌6月7日には、上総国玉崎荘(千葉県睦沢町)の千葉邸が攻撃され、追い詰められた秀胤は一族郎党163名とともに自害しました。
 こうした強硬姿勢を見ると、時頼は三浦滅亡を企図していたかのように思えますが、一方で吾妻鏡の6月29日の段には不思議な記述があります。
 下総にいた結城朝光が鎌倉にやって来て時頼に会い、
「自分がいたらむざむざと三浦泰村を討たせるようなことはしなかったのに」
と涙ながらに述べました。これを聞いた御家人たちの間で「朝光を処罰すべき」との声が上がりましたが、時頼は逆に恩賞を与えたというのです。
 結城朝光といえば、梶原景時の変のきっかけを作った人物で、どうも不穏当で誤解を招く発言が多い人物のようです。しかし、戦闘に参加していたわけでもない朝光が、発言だけで恩賞をもらえるというのは不思議です。三浦を討つつもりのなかった時頼は、朝光のこうした御家人間の融和を進めようとする態度に感服し、これを他の御家人たちの手本としたかったのかもしれません。

前頁の階段を登ったところにある頼朝法華堂の跡。頼朝の墓だけでなく義時の墓もある。義時は頼朝と同じ場所に葬られるほどの存在感を発揮していたようだ。

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