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30年日本史00695【鎌倉中期】弘安の役 壱岐/鷹島の戦い

 弘安4(1281)年6月29日。壱岐を占拠する東路軍に対し、薩摩(鹿児島県)の御家人・島津長久(しまづながひさ)や肥前(佐賀県)の御家人・龍造寺家清(りゅうぞうじいえきよ)らが数万の軍勢で総攻撃を開始しました。司令官は82歳の老躯をおして戦った少弐資能です。少弐資能の子の経資(つねすけ:1229~1292)や、その子の資時(すけとき:1263~1281)らも参加していました。
 壱岐の戦いは大乱戦となり、日本側は資能・経資が重傷を負い、資時が戦死するという犠牲を出しますが、一方で東路軍の犠牲も大きく、追い込まれた東路軍は平戸島(長崎県平戸市)に向けて移動していきました。敗走したとも、江南軍との合流場所を平戸に変更したためともいわれています。
 少弐資時は命に代えて壱岐を守った偉人とされ、その後、壱岐神社の祭神として祀られるようになりました。壱岐神社に隣接する場所は少弐公園として整備され、さらに芦辺港フェリーターミナル前には「少弐資時公像」が設置され、資時の功績を顕彰しています。
 さて、平戸島周辺で東路軍を待っていた江南軍は、主力を鷹島(長崎県松浦市)沖に移動させました。平戸よりも鷹島の方が上陸しやすいと考えたのでしょう。そこに壱岐からやって来た東路軍が合流し、遂に元軍は約15万の大軍に膨れ上がりました。
 しかし日本軍は果敢にも、この大軍に自分から戦いを挑んでいきます。
 7月27日、鷹島沖に停泊している軍艦に対し、日本軍の軍船が攻撃を仕掛けました。戦闘は日中に始まったのですが、翌朝にかけて長時間続き、元軍は大きな損害を受けたといいます。鷹島周辺は潮の満ち引きが激しく、操船が極めて難しい海域らしいので、潮の流れを知り尽くした日本側に有利だったのでしょう。
 これまでの戦いを見ると、文永の役は元軍側から仕掛けてきた戦いが多いのに対して、弘安の役は全て日本側から仕掛けた戦いであり、日本側が優勢に戦っています。日本側がどの程度の兵力を動員したのか不明ですが、約15万もの大軍に対してこれほど善戦できた理由は何だったのでしょう。
 一つは、あらかじめ元寇防塁を築いたり、交代制で御家人たちを九州防備に当たらせて十分な兵力を動員できるようにしたり、十分な準備をしていた点にあるでしょう。東路軍は元寇防塁のために博多湾からの上陸を諦め、そのおかげで志賀島という狭い地域での乱戦となって思わぬ敗北をなめることとなったわけですが、広い平地での戦闘となっていれば数の優位を誇る元軍が勝利していたかもしれません。
 もう一つは、元軍の士気が高くなかったことが挙げられます。高麗も江南(南宋)も、当初は元に帰属することを拒み、戦に敗北してやむなく元に帰属したという経緯があります。元の海外侵略に加担することに消極的な兵が多かったのでしょう。

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