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30年日本史00679【鎌倉中期】三度目の黙殺

 朝廷が菅原長成(すがわらのながなり)に起案させた返書は、次のようなものでした。
「我が国と貴国とはこれまで何らの交際もなかったのだから、好悪の感情は何もないのに、交際しなければ兵を用いるとは何とも不審なことである。聖人の道は慈悲を唱え戦争を悪業としているところ、貴国は帝徳仁義の国であると言っているのになぜ兵戦に言及されるのか。我が国は力をもって争うべからざる国である。思量されよ」
 かなり簡単に記しましたが、原文はより詩的な美文でした。朝廷はこれを幕府に示しましたが、幕府は
「返書不要」
という方針を崩さず、この返書案はお蔵入りとなりました。二度目の使者・金有成は空しく高麗に帰っていきました。
 幕府は元の姿勢に強い危機感を覚えたらしく、筑前(福岡県)・肥前(佐賀県・長崎県)の2ヶ国の沿岸を1ヶ月交代で警備させる「異国警固番役」を設け、御家人を投入して九州防備に当たらせました。
 文永8(1271)年9月19日。今度は高麗ではなく元が直接使者を派遣してきました。趙良弼(ちょうりょうひつ:1217~1286)という人物が、筑前国今津(福岡県福岡市)に到着し、国王への面会と返書とを要求してきたのです。
 趙良弼は今まで派遣されて来た人物よりもはるかに強硬でした。国書は京に直接出向いて国王に直接渡すと言って聞かないのです。
「国王に会わせないなら私の首を持ち去れ」
とまで言って、少弐資能との間で押し問答を繰り広げますが、最終的に
「国書の写しを預ける。11月末までには返書をもらう」
と期限を区切った上で、大宰府で待機することに同意しました。
 しかし、例によって返書は出されぬまま、趙良弼はむなしく帰国することとなります。帰国した趙良弼がフビライに答申した内容は、次のようなものでした。
「私は日本に一年あまり滞在しましたが、日本の風俗を見たところ、荒々しく獰猛で、殺生を嗜み、父子の孝行や上下の礼も知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに不利なところです。日本の人も土地も使い物にならないものです。さらに、軍船で海を渡ろうとしても、風に定期性がなく、どの程度の損害をこうむるか計り知れません。私が思うに、日本を討つべきではないでしょう」
 後の歴史を考えると、趙良弼の進言のうち「風に定期性がなく損害をこうむるかもしれない」という指摘は的を射ていました。しかしフビライは服属しようとしない日本に不満を示し、侵攻を決意したのでした。

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