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30年日本史00808【鎌倉末期】鎮西探題滅亡

 こうして鎮西探題襲撃は失敗に終わり、逆に菊池氏が滅亡の危機に瀕することとなりました。
 菊池武重の敗走後、菊池氏の居城・鞍岡城(くらおかじょう:宮崎県五ヶ瀬町)が鎮西探題方の規矩高政(きくたかまさ:?~1334)の攻撃を受け、武重は命からがら逃れました。ちなみに規矩家は北条一族の分家で、豊前国規矩郡(福岡県北九州市)の領地を治めていた家です。
 こうして鎮西探題は反乱を完全に鎮圧し、盤石な体制を確保したかに思えたのですが、その後、元弘3/正慶2(1333)年5月9日に六波羅探題が滅亡したとの知らせが飛び込んできました。
 この知らせにより、九州の戦況は一挙に逆転することとなります。
 六波羅探題滅亡の知らせを受け取った少弍貞経は
「幕府の味方などするのではなかった」
とすっかり後悔します。
 少弍は今からでも方向転換しようと決め、
「急いで今から鎮西探題を滅ぼそう」
という使者を大友・菊池に派遣します。実にずうずうしい申し出です。
 菊池武重は
「我が父を裏切って殺しておきながら、まだ3ヶ月も経っていないのに」
と、当然怒っていて聞く耳を持ちませんでしたが、一方の大友は乗り気でした。あまりに厚かましい話だと思います。
 鎮西探題の赤橋英時は少弍の企みを知り、家臣の長岡六郎(ながおかろくろう:?~1333)を派遣して探りを入れることとしました。長岡が少弍家を訪ねたところ、明らかに出陣の準備をしているとみられる様子でした。
 少弍貞経の息子・頼尚(よりひさ:1294~1372)と対面した長岡は、
「さては謀反の計画だな」
と刀を抜いて飛びかかりますが、討たれてしまいます。
 使者を斬ったことで計画が露見してしまった少弍は決起を急ぐこととなりました。
 5月25日、少弐貞経・大友貞宗が鎮西探題を襲撃しました。この二度目の襲撃によって鎮西探題は滅亡し、赤橋英時は自害に追い込まれました。

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