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30年日本史00715【鎌倉後期】93代後伏見天皇(持明院統)即位

 さて、鎌倉での政変は朝廷の政局地図にも影響をもたらしました。京極為兼が伏見天皇の信頼を勝ち取って台頭し始めたのです。伏見天皇は元々、頼綱と結びつくことで皇位を手にした人物でしたが、その後頼綱のあまりの専横ぶりに嫌気がさしてきたのでしょう。為兼の工作が善空排除につながり、さらには頼綱横死にまで発展したことで、為兼は対幕府工作を一手に担うようになります。
 そうなると、面白くないのは関東申次の西園寺実兼です。実兼は元々、幕府に伏見天皇即位を働きかけて実現させた人物でしたが、自身がなかなか重用されないことに腹を立て、持明院統を見限って大覚寺統の味方をするようになります。
 永仁4(1296)年5月。実兼は幕府に働きかけ、為兼が権中納言から解任されるように仕向けました。
 これに成功した実兼はさらなる働きかけを行い、永仁6(1298)年1月に為兼は捕縛され、3月に佐渡に流罪とする旨が決定されました。一体どんな罪状によるものだったのか、不思議なほどに公家たちの日記が欠落していて、詳しく分かっておりません。
 勢いを得た実兼は、さらに大覚寺統のために働きます。
 当時、天皇位も皇太子位も持明院統に独占されている状態でしたから、大覚寺統に皇位を移すためには、さっさと皇太子への譲位を済ませる必要があります。実兼の働きかけにより、永仁6(1298)年7月22日、幕府から伏見天皇への要請がなされ、伏見天皇は皇太子・胤仁親王に譲位させられました。後伏見天皇の即位です。
 余談ですが、「後〇〇天皇」という加後号のついた天皇は数多くいますが、直前の天皇の諡名に加後号を付した天皇は(つまり〇〇天皇の直後に後〇〇天皇が即位するのは)伏見・後伏見の間だけです。
 さて、持明院統と大覚寺統の真の競争はここからです。皇太子を決めるところで勝負は決まってしまうわけですから、両統とも必死になって幕府に働きかけを行います。
 結局、皇太子位を射止めたのは大覚寺統でした。翌8月、後宇多上皇の子・邦治親王(くにはるしんのう:後の後二条天皇:1285~1308)が立太子したのです。といっても、伏見・後伏見と持明院統が2代続いたのですから、次は大覚寺統が来るというのは順当な判断であったと思います。
 一時は破竹の勢いであった持明院統が凋落し、大覚寺統の世がやってきました。その原因としては、伏見天皇が味方のはずの平頼綱を嫌って失脚させてしまったこと、側近の京極為兼を失ったこと、有能な関東申次・西園寺実兼が大覚寺統に回ったことの3点が挙げられるでしょう。

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