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30年日本史00849【建武期】三井寺の戦い 援軍来ず

 北畠顕家が近江国愛知川に到着したときは、なんと5万騎の大軍でした。
 ちょうど顕家が愛知川に到着した建武3(1336)年1月12日、後醍醐天皇方の大舘氏明(おおだちうじあき:1303~1340)が、足利方の六角氏頼(ろっかくうじより:1326~1370)が立て籠もる観音寺城(かんのんじじょう:滋賀県近江八幡市)を陥落させたところでした。つまり後醍醐天皇方の逆襲が始まりつつあったということです。天皇としては、観音寺城陥落の報と顕家到着の報が同時に届いたわけですから、喜びもひとしおだったと思われます。
 翌1月13日、顕家は坂本(滋賀県大津市)に到着して新田義貞・楠木正成・大舘氏明と合流し、作戦を練りました。
 ここで顕家が
「馬を明日まで休ませて、明後日に京に攻め入ろう」
と主張したのに対して、大館は
「休みを取らせるとかえって緊張がゆるんで使い物にならなくなる。敵もさすがに明日攻められるとは予期していないだろう。今夜のうちに近づいておいて、夜明けを待って三井寺に攻め込んではどうか」
と述べました。
 三井寺(滋賀県大津市)とは比叡山延暦寺から分派した天台宗の寺で、足利方の細川定禅が立て籠もっているところです。源平合戦の頃には以仁王が立て籠もったこともありましたね(00448回参照)。正式には「園城寺」と呼びますが、太平記では「三井寺」と表記されているのでここでは三井寺で統一します。
 細川定禅は、坂本に敵の大軍勢が到着したのを知って、京にいる尊氏に使いを立てて援軍派遣を要請しますが、尊氏は呑気なものでした。
「一体関東からどんな大軍が上洛してくるというのか。来たとしても我々の味方であろう。たとえ間違って(敵のいる)坂本に到着したとしても、すぐに勘違いに気づいて我々の元に馳せ参じてくるに違いない」
などと言って、援軍を一切送ろうとしなかったのです。
 尊氏は天才的な軍略を発揮する場面もある一方、このように間の抜けたところもあって、何とも捉えどころのない不思議な人物ですね。出奔した後醍醐天皇を追跡しなかったことなど(後述)、尊氏の生涯には大きな失敗とみられるところがいくつかあります。
 細川定禅は足利家からの支援なしに、新田・北畠を含む南朝の大軍と戦わなければならなかったのです。

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