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30年日本史00697【鎌倉中期】弘安の役 鷹島掃討戦

 鷹島に見捨てられた元軍の兵たちの絶望感はいかほどであったか、想像に余りありますが、彼らは互いに励ましあって、木を伐採して船を建造することで、どうにかして祖国に帰ろうと言って伐採作業を始めました。
 ところが、この兵たちを見逃す鎌倉武士ではありません。弘安4(1281)年閏7月7日、日本軍は鷹島への総攻撃を開始しました。といっても、鷹島の元軍は台風被害から命からがら陸に上がることができた者たちで、武具も不十分で士気も削がれた弱々しい兵が多かったでしょう。10万人といわれる元軍の兵たちは必死に抵抗するものの、次々と斬られていきました。元軍は壊滅し、2~3万人が捕虜となったといいますから、残りは殺されたのでしょう。
 文永の役では、元軍は圧倒的な兵力差をもって対馬・壱岐の住民を殺戮したといわれていますが、弘安の役における鷹島掃討戦はまるで逆の構図となりました。鷹島には現在、首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(祈り)の浜といった地名があり、この掃討戦のすさまじさを物語っています。
 大河ドラマ「北条時宗」では、命からがら岸に辿り着いた敵兵たちを
「これはもはや戦ではない」
と言って助けるという人道的なフィクション描写がありましたが、現実はそんな生温いものではなかったでしょう。
 この鷹島掃討戦をもって元寇の全ての戦闘は終了しました。結果的に元軍は8万人を超える兵が帰還できず、海の藻屑と消えるか、はたまた捕虜として日本軍に生け捕られました。
 以上が元寇の顛末ですが、文献によって大きく記述ぶりが異なっているなど、様々な誇張が混じっている可能性が指摘されており、元寇における戦闘の真の姿は今もよく分かっていません。
 文永の役においては、前述のとおり「暴風雨は戦況に影響しなかった」というのが定説ですが、近年、弘安の役における台風が戦況に影響したことについても疑問視する声が上がっています。というのも、
「元軍は戦略ミスで敗北したことが露見して叱責されるのを防ぐため、台風によって沈没して溺死した人数を大幅に水増ししたのではないか」
という疑惑があるのです。
 確かに弘安の役での鎌倉武士の活躍は目を見張るものがあり、台風来襲以前から戦いを有利に進めていたのは事実です。もし台風の影響がなかったとしたら、後世の神風伝説も生まれなかったわけで、日本の宗教風土も大きく変わっていたかもしれませんね。

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