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30年日本史00725【鎌倉後期】日野資朝の抜擢

 元応2(1320)年3月24日、後醍醐天皇は日野資朝(ひのすけとも:1290~1332)を蔵人頭に抜擢しました。天皇は既に日野俊基という公家を登用していましたが、俊基と資朝は同族で、7世祖先が同一人物という血族関係にあります。ずいぶん遠い親戚ですね。
 この日野資朝という人物がいかに個性的だったかが、徒然草に記録されているのでご紹介しましょう。
 以前、持明院統に属する公家・京極為兼と大覚寺統に属する公家・西園寺実兼の対立について述べました。永仁6(1298)年に為兼が佐渡国に配流となって決着がついたかに見えましたが、その為兼は嘉元元(1303)年に帰京が許され、再び持明院統の伏見上皇に仕え始めました。
 実兼は再び為兼を追い落とそうと働きかけ、正和4(1315)年12月28日、為兼は六波羅探題に捕縛され、翌正和5(1316)年1月12日には土佐国への配流が決定されました。これまた、1回目の配流と同様に具体的な罪状が何も記録されておらず、単に両統の政争に巻き込まれただけに見えます。為兼は土佐からの帰京を許されないまま没することとなりました。
 さて徒然草によると、為兼が六波羅探題に捕縛されて連行されていく姿を見物した日野資朝は、
「あな羨まし。世にあらむ思ひ出、かくこそあらましほしけれ」
(何と羨ましいことだ。この世に生まれた思い出にあのような経験をしたいものだ)
と呟いたというのです。資朝は反逆者の素質を早い段階で持っていたということでしょうか。
 もう一つのエピソードを紹介しましょう。西大寺の静然(じょうねん)という高僧が内裏にやって来た際、腰が曲がり、眉も真っ白だったことから、西園寺実衡(さいおんじさねひら:1288~1326)が
「なんとありがたいお姿だ」
と深く感動したところ、資朝はにべもなく
「単に年を取っているだけです」
と述べたといいます。
 さらに資朝は後日、年を取って痩せ衰えて毛の抜けた老犬を持ってこさせて
「これが尊く見えるそうですね」
と言って実衡に贈ったそうです。感じの悪い話ですが、既存の価値観に捕らわれない大胆不敵な人物像が見て取れると思われます。

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