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30年日本史00677【鎌倉中期】フビライの恫喝

 フビライは高麗の元宗に
「そちはいつも恩に報いると言っているが、これこそ報恩の機会である。早く履行せよ」
と言って、日本への使節派遣を再度命じてきました。
 高麗の重臣・李蔵用はやむなく、使節として潘阜(パンプ)を派遣することとしました。
 文永5(1268)年1月、潘阜はフビライの国書を携え、海を渡り大宰府に来訪してきました。当時の大宰府の責任者は少弐資能(しょうにすけよし:1198~1281)でした。
 元々、大宰府の長官は「大宰帥(だざいのそち)」で、長官の代理が「大宰権帥(だざいごんのそち)」です。そして次席を「大宰弐(だざいのすけ)」と呼んでいたのですが、これが大小二つに分かれ、上席を「大宰大弐(だざいのだいに)」、下席を「大宰少弐(だざいのしょうに)」と呼ぶようになりました。そして、大宰少弐を代々受け継いできた一族は、役職名をとって「少弐」という名を名乗るようになっていたのです。
 少弐資能は潘阜からフビライの国書を受け取りますが、この国書には、高麗王・元宗からの書状も添付されていました。元宗からのメッセージはおよそ次のようなものです。
「元の皇帝がこの度、貴国を交流したいと言っておられるのは、元をより名誉ある国家にしたいという思いからであり、他意はないと思われる。貴国から返事をすれば、きっとその厚意は報われることであろう。使いを出してみてはいかがか。ただし、万事は貴国の思案次第である」
 高麗は、できるだけ事を穏便に進めようとしているようです。日本が形だけでも返書を出して、戦争を回避できればよいと思っていたのでしょう。
 この国書は閏1月8日に鎌倉に到着しました。ずいぶん時間がかかっていますが、大宰府において受け取る、受け取らないなどと揉めているうちに時間が経過してしまったのでしょう。
 幕府は、この国書をひどい驚きを持って受け取ったことでしょう。執権政村は62歳の老人、連署時宗は16歳の少年です。どんな議論があったかは分かりませんが、幕府の決定は
「返書すべきでない」
というものでした。確かに、国書の末尾には
「兵を用いるようなことは朕はしたくない。よく思案せよ」
と恫喝めいた文言が書かれており、無礼だと考えたのでしょう。
 国書が「日本国王」宛てだったことから、幕府は黙殺すべしとの意見を添えて、朝廷にも諮問することとなりました。

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