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科学は案外フレンドリー

科学が万人普遍の真実であろうとする限り、あなたの個性は蔑ろになる。
はたして、本当に?

前の往復書簡でハカセはこう指摘した。科学はある集団や現象の傾向や平均をもとに判断を下す。だから科学は最も平均的な人間に当てはまるようチューンされている、と。

科学の子羊

この記事でハカセが提起した問題は2つ。科学の前に個性は排除・無視されるとして
1:科学は私に何を与えてくれるか
2:私は科学をどう見るか
という問いである

1も無視できない問題だが、そうは言っても少なくともこれを読む人はかなり科学の恩恵を受けている。少なくともnoteを粘土板に刻んだ文字で読んではない。スマホか、PCか、一番アナログに近くてもプリンタで紙に出力している。どれも科学技術の恩恵だ。

2のほうがより深刻な問題になる。個性を持てば持つほど、科学の網目をすり抜けてしまうのではないか、だとすると本当に科学を信じて良いのか、あるいは無個性になり、良き子羊となるべきなのか。あるいはそれとも、科学の柵の外、つまり占いや陰謀論の世界に生きるべきなのか。

科学は無個性を求めない

前の記事では科学と占いを比較し、「一度きりの人生」において、「科学」に「占い」以上の価値があるか、とハカセは指摘した。

確かに科学はあなたの病気がこの治療で治る確率はどれくらいだ、とまでは言えるが、あなたが治る側なのか治らない側なのかはわからない。あなたにとっては、治るか治らないかしかない。

しかし実はこれは個性を無視してなんかいない。むしろ個性を拾う事で、科学はこれを可能にした。たとえば癌に対する治療戦略は個性を拾う事で大きく様変わりした分野の一つだ。

癌は活発に細胞分裂するから細胞分裂する細胞にダメージを与えるという発想は悪くない。フルオロウラシルは細胞分裂時のDNA合成を邪魔して細胞を殺す。だが、当然ながら癌細胞以外も人間の体は細胞分裂しているし、癌細胞によっても分裂の速度は様々だ。だから癌を倒すためにはものすごい巻き添えが生じるし、時には巻き添えが多すぎて十分な量を使うこともできない。この方法だけでは「この治療で治る確率は30%だ」と言うのが関の山だろう。

だが今は違う。例えば肺癌一つ取ってみても、EGFR(表皮成長因子受容体)変異という遺伝子変異がある患者にはEGFRチロシンキナーゼ阻害剤を投与することで治療効果が期待できるし、別の遺伝子変異を持つ患者にはその変異専用の薬剤を利用する事ができる。

患者がどんな遺伝子変異を持っているかだって、立派な個性だ。このような個性や個人差、すなわち患者の遺伝子や病態、症状、背景などを個別に評価し、それに基づいて治療方針を立てる医療をオーダーメイド医療と言う。もちろん、まだこの分野は発展途上だから、常に99%の奏効率とは行かないが、それでも20世紀の医療に比べれば大きく進歩している事は間違いない。

占い師が依頼者の話に寄り添い最も求めている答えを出すように、科学は個性を定量化し様々なパラメーターに落とし込むことで個人ごとに何らかの答えをはじき出せる。

存在しない平均

科学は普遍的な真実を求める。だが、普遍的な人間、平均値としての人間のみがその成果を享受できるわけではない。それは科学の方法論と、その方法論で得られた科学知識をごっちゃにしている。

科学の方法論とは、普遍的で再現性のある法則を見つけ出しそれを組み合わせ真実を明らかにする過程だ。その過程の結果として生まれるのが科学知識だ。法則が普遍的であればあるほど、多くの個性に応じた解答を幅広く用意する事ができる。

もし科学が平均的な人類のために奉仕するなら、その受益者は平均的な人類だけに限られるだろう。じゃあどんな人が科学の受益者になるか、そのペルソナを考えてみよう。

MBA取得者の世界ではペルソナを考える上でまずは金玉の数を考えるのが基本なので、今回もそれに習い平均的な人類というペルソナ像を考えると金玉を一つ持つ人間ということになる。

その他ざっと今生きている人の平均を出すと、50歳程度、BMIは24、血圧は120/80 mmHg程度となる。そして金玉が1つ。おそらくこれに合致する個人は地球上に数人はいるかもしれないが、少なくとも科学はその数人のみを主としてわけでは断じてない。科学がこの少数の平均の持ち主たちだけを主として仕える偏狭な学問であれば今ほど広く世界に受け入れられることはなかっただろう。

科学が平均を利用するのは平均そのものに価値があるのではなく、法則を打ち立てるときの幹になるからだ。幹があってはじめて枝葉が位置づけられる。その枝もまた、幹に近いものから描かれていく。

また具体例を一つ挙げよう。たとえば脳梗塞の予防薬は内服する事で脳梗塞の発症リスクを下げる事が知られている。これは幹もしくは主要な枝である。

後に、そのうち一つの薬剤については、ある遺伝的背景を持つ人には効果が不十分であることがわかった。だからそういう人には別の種類に薬剤が処方される。これが新しく追加された枝だ。

この変異は日本人は18%が持つからまだ個性というにはちょっと大きすぎるくくりだが、少なくとも少しずつ個人個人に応じた対応ができるようにはなってきている。

科学とはできる限り多くの事を理解し、説明し、予測しようとする営みであり、絶えず枝葉を伸ばし成長する大樹である。

個性が無限にある以上、どんなパラメータを用意し、そのうちどれを重視するかは今も模索中であるが、カバーできる個性の範囲を着々と広げていく漸近線の上を進んでいる。

科学は常に仮言命法

科学が幅広い個性に対応しているということは、あるインプットを入れたらあるアウトプットが返ってくる一種の函数のようなものだと考える事ができる。そして対応しているインプットの種類とアウトプットの正確さは今日も少しずつ上昇してる。

これは良い知らせではあるけれども、同時に、油断できない事実をはらんでいる。「Aという目的を達成するには」というインプットに対し、「Xをすることが期待値を最大化する」というアウトプットが出てくるし、Bという目的ならYするのが期待値を最大化する、と返ってくる。

たとえば宗教や道徳では「嘘をつくな」と教える。こういった教義は通常、「誠実と思われたいなら嘘をつくな」のような条件や仮定は置かれない。前者の「嘘をつくな」のように常に正しくいつもそれに従うべき道徳ルールをカントは定言命法と呼び、後者のような条件文につく概念を仮言命法と呼んだ。

科学が返す答えは常に仮言命法だ。定言命法のように無条件に従うべき規範は科学の範疇の外にあり、科学を前に、常に自分で「どうしたいか」「何をしたいか」を考える必要があり、期待値を最大化する選択肢を知ったとして、自分がその選択をするかどうかも考えないといけない。道徳や宗教の戒律のように絶対服従なものではなく、採否の権利もその結果の責任も人間の側にある。

その点では、ハカセが指摘したように科学は個人に「正解」を提供する事はできない。あくまで、最も期待値が高い選択肢を提示するだけだし、それもちゃんと自分から条件を定めないといけない。

崇めも排斥もしない、対等な良き隣人としての科学

このように考えると、最後に見えてくるのは非常にシンプルな結論だ。

科学は問いに対し最も期待値を高くする選択肢を教えてくれるが、それ以上でもそれ以下でもない。あなたの決定に対し、当たり前だが科学は何の強制力も持たない。

これ自体が冒頭の2つの問の答えになる。
1:科学は私に何を与えてくれるか
2:私は科学をどう見るか

具体的な例を挙げて考えよう。
意外に思われるかもしれないが、今の時点の科学レベルで、100年生きる事はそんなに荒唐無稽な話ではない。白米やパンといった精白された炭水化物を避け、(意外なことに)タンパク質は少なく、野菜を多く取り、砂糖をできる限り摂取せず果物で代替し、常に腹八分未満にする。30分以上の運動を週に5回以上行い、運動したからと言ってどか食いしない。毎日睡眠は7時間以上とり……

これらの禅僧の戒律めいた生活を50年60年と続ければ多くの病気を遠ざけることができると科学は教えてくれるし、実際に100歳超えの老人が闊歩している地域の生活習慣はだいたいそんなもんだ。

だが、注意してほしいのは「あなたが健康長寿をどれだけ手に入れたいか」という事にある。健康はもちろん重要だが、おしゃれなカフェでケーキに舌鼓を打ったり、夜遅くのバーで飲酒して心拍上昇がアルコールのせいか隣りにいる異性のせいかわからなくなったり、そういうイベントにどれだけ価値を見出しているか、ということなる。

健康は失ってはじめて気づくものだし、余命宣告されてからはじめて後悔する喫煙者は多い。しかしそれでもなお、ちゃんとその後悔の始末を自分でつけられるなら、人には愚行を選択する権利がある。

科学は問いに対し最も期待値を高くする選択肢を教えてくれるが、あなたの選択に対しては何も言わない。だから、「私」が科学をどう見るかという点については盲目的な崇拝や信仰では駄目なんだ。正しい問いを立てなければならない。

自分がどれくらい長生きしたいのか、それともほどほどで良いのか、どれくらいまでなら平均からの逸脱を許容できるか。自分の望みを自覚し、適切な問いを立てられれば適切な答えが帰ってくる。適切な問いを立てるというのは、科学が遍在するこの時代における一つの義務とすら言える。科学は砂糖を食べたらどうなるかは教えてくれる。また、血糖管理をする上で食べて良い量も教えてくれるかもしれない。だが、「今」「あなたが」食べるかどうかを決めるのは他ならぬあなた自身だ。

たとえあなたが金玉を獲得するか譲渡するかして金玉を持つ「平均的な人類」になったところでもなお、科学はあなた個人に対してあれこれ命じる事はないし責任も取らない。それはあなたの仕事だ。不健康のリスクを取った上で、自分の精神の豊かさを優先したい時もある。そういう時は科学と距離をとってケーキビュッフェに行くのもいいだろう。

だが、科学と距離を取る事と、無視する事は別物だ。塩を1日50g食う事が健康に良いとか、種を2mの深さに植える(埋める?)と収量が上がるとか、その手のものだ。それは科学ではないし、科学と距離をおいている例でもない。単に科学の皮をかぶったペテン師だ。塩を50g食うと明瞭に寿命が縮むとわかった上で塩味の効いたものを食べて太く短く生き急ぎたいとか、種は全滅するのをわかってはいるけどルイセンコ農法をしている時だけ絶頂を感じる特異体質になってしまったとか、そういうのが科学と距離を置いた上で自分の幸福を優先する例となる。

科学もあなたも対等なのだ。対等というのは命令もされないし、責任も負わない。科学が発達するにつれ、そしてインターネットや対話型AIで科学知識へのアクセスのハードルが下がるにつれ、自分の本当の願いを直視して、言語化し、そして自分の決断に責任を持つ事の重要性はこれまでなかったくらいに高まってきたのかもしれない。

それに、修行僧でもない一般の人間にとって、欲望や衝動を悪として抑圧し、禁欲を是として目をそらしたところで、早晩変な理屈をつけて正当化するのは火を見るよりも明らかだよね。

情報があふれるこの時代に、己の欲望を直視するスキルが重要になる流れは止まらないよ。

それが多くの人を幸福に導くのか、それともそうでないのか。
これは目が離せないよ、ハカセ。


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