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卒業に代わるステージクリアという考え

また今年も桜が咲き、卒業シーズンを迎えた。去年までは桜を見ると大学に入った当時を思い出し、時が過ぎる早さに感嘆するとともに、自分が大学にいられる残り時間がまた1年減った事に焦っていたが、今年はいつものような焦りを感じる事がなくなった。

ここ最近、「ステージクリア」感を強く感じる。おそらく、自分の卒業よりも先に、ステージクリアが見えてしまった、もしくは既にクリアしてしまったから焦りが消えたのだろう。それが何のステージかは後ほど考えるとして、なぜ卒業感ではなく、ステージクリア感なのか。


卒業は客観的、ステージクリアは主観的

卒業とステージクリアというのは似ているところも案外多くて、一定期間何かにコミットして、目標に到達する必要があるのは共通している。卒業とステージクリアの最大の違いは、「戻れない」か「戻らない」かという違いだ。

卒業後の母校をOBとして訪問する事はあれど、基本的には学籍も消え、学生としてそこで時間を過ごす事はできない。一方でたいていのゲームではステージクリア後にもそのステージを遊べるが、もっと行きたいところが他にできてしまっている。たとえば必要なアイテムを全部とっていたり実績を全部解除してしまっていたりするかもしれないし、強くなりすぎていてもう最初の頃の楽しさは味わえないかもしれない。やりこみ要素はあるかもしれないが、多くの場合は次のステージに進んだほうが楽しい

違いは他にもある。卒業が外部によって認定され、他者によって決定される客観的なイベントに対し、ステージクリアとは自分の価値観が相転移する内面的なイベントである。そして、それゆえ卒業には時間制限がある。条件を満たせば3月になれば自動的に卒業するし、条件を満たさず8年程度経過したら卒業は失敗する。しかしステージクリアは何年かかってもクリアしない限り同じステージである。次に進むことも締め出される事もない。

だから今回、節目でもなんでもない年に突如としてステージクリア感が湧いてきた。先程価値観の相転移という言葉を使ったが、それについて深掘りしてみよう。氷が水になったり、水が水蒸気になることを相転移という。熱された飴が柔らかくなるときに、硬い・柔らかいの間に明確な境界線はないが、氷から水への状態変化には明確に線が引ける。ステージクリアにより今までの行動原理や優先順位がガラッと変わってしまうのは、価値観の一種の相転移にほかならない。つまり、突如湧いたステージクリア感の前後で変わった価値観を比較すれば、何から何への相転移が起きたのか見えてくる。

渇望の日々の終わり

結論から言えば、「藪の中の二羽の鳥より手の中の1羽の鳥に価値がある」を実感した事が今回の相転移だった。このことわざは知識としては知っていても、実感は今まで湧いてこなかったし、行動原理にも反映されていなかった。おそらくそれは正しい。ステージクリア以前は可能性を広げる事、種をまくことに注力する方が理にかなっている。たまたま何かを収穫しても、初手でビギナーズラックを引くというとんでもない不運に見舞われない限りは、最初の収穫物が人生における最高傑作ではないし、そのやり方が最も将来性があるものでもない。

最初のうちは足りない、まだ足りない、もっと新しいものを、もっと多彩な事を、と無限の飢えや渇きの中に身をおいている。だからその時期というものは、とかく人と自分を見比べて、他の人がしている当たり前を自分は何か取りこぼしているんじゃないか、とか、周りが持ってる資格を、内定を、体験を自分はまだ手に入れてないんじゃないかと気になってしまう。

本屋に行けば20代のうちにやるべき50の事とか、できる人が学生時代にやっていた20の習慣とか、そんな本が平積みしてある。そういった本を読むこと自体は悪くないけど、多分それで渇きは癒えない。その本のアドバイスを全部実行するよりも、その本に書かれてない他の助言を求めて、本を読み終わったら今度はスマホで類似したサイトを巡るネットサーフィンを始めるのは火を見るより明らかだ。なんせ、体験談だからね。

これは別に何も仕事や人生論だけの話ではない。娯楽も趣味も友人づきあいも余暇の過ごし方だって、最初のうちは様々な事に挑戦するし、ときには明らかに無謀な事もする。友達と丑三つ時に丑三つ時詣でを観察するためにチャリで神社に行くとか、大文字山で遠吠えするとか、どう考えてもいかなる生産性にも結びつかない行為を日常的にやっていたけど、それを持って大学のレジャーランド化だのモラトリアムだのというのは不見識甚だしい。

そのような一見無軌道な放埒の日々は収穫量の最大化を前提としていないフェーズでは妥当であり、またある意味最も合理的であるのだ。つまり、楽しそうなことを片っ端からやっていたら、楽しさの相場観というものが形成される。それが形成されてしまえば、何か新しいことを始めたときに、それがどれくらい楽しいかを比べる事ができる。そして、そのうち自分が尋常じゃない楽しさを感じるものに出会って、馬鹿騒ぎをしなくなる。別に馬鹿騒ぎが嫌いになったわけじゃないし、したいのはやまやまだけど、もっと面白いものの方につい目も心も奪われてしまう。

真夜中の大学構内でケイドロするのは楽しいけど、研究を進めて誰も知らない世界のその向こうに一番乗りするのはもっと楽しいし、合コンなどで複数の異性に会うのは楽しいけど、一人の恋人と日常を過ごすのはもっと刺激的なのと一緒だ。

青春のクリア後に来るもの、朱夏ステージ

種を蒔く時期から収穫の時期へ移り変わる時を価値観の相転移という言葉で説明してきたが、中国の陰陽五行では別の表現がある。四季と色を組み合わせた、もっと日本人の人口にも膾炙した表現だ。

すなわち、青春、朱夏、白秋、玄冬。そして青春というとまるで卒業のように時間経過によって規定されるものという印象が強いが、この春という言葉通り、地を耕し、種を蒔く季節と考えるならそれは人によってばらつきがあってもいいだろう。同時に種をまく時期というのは、どの種を植えようか、どこに撒こうか、この土で一番よく育つのはなんだろうか、見落としている事はないだろうかととかく逡巡するし、それでいいと思う。青春というのは学ぶ時期だし、逆に学ぶ時期というのは何歳であってもまだ青春と言えるかもしれない。

その逡巡は、未熟さから生まれる自然な帰結だし、青春とは己や所属集団の持つ未熟さとの戦いの時期だ。そしてその終了条件は将来の方向性の確立である。逡巡や焦り、未熟さとの戦いは自分が何に取り組むべきかを見つけることで終了しステージクリアとなる。

次のステージは朱夏だ。スタート条件は自分が取り組むべきものが決まっている事。その取り組むべきものが、眼の前の人を助ける事だったり、遠い未来の礎を築く事だったり、誰も見たことがないものをみんなに見せる事だったり様々だろう。ただ一つ共通しているのは、その目的は世界に益を与える事で共通している。

人との交流を絶ち、人里離れて自分の納得の行く陶芸を追い求める芸術家だって、その人は美しい作品を作り出す事で世界の富の総量を増やしている。金儲けさえできればいいという人だって、ゆくゆくは増えた富を誰かの事業に投資してそのリターンでさらに富を増やす。投資を通して誰かの事業を拡大させ、社会に富の総量を増やしている。

世界に利益をもたらす行為に人間は自己実現を感じるのか、それとも自分が満足する成果を上げる事を追求すればやがては世界に益を与える事に必ずつながるのか、卵が先か鶏が先かはわからないがどうやら世界はそうなっているらしい。というより冷酷で公正な自然淘汰が、この原則から外れる個体を丹念に長年かけて間引いてきたからかもしれない。

桜が咲いている間だけは

ここ1年くらい、何時間コードを書いたり、書いたスクリプトをテストしたりする日が続いても、翌朝も今日はどんな結果が出てるか待ち遠しくて朝起きてまっさきにPCを開くという生活をしている。遊びにもそれなりに行ってるが、昔のようにアレもしなきゃ、これもしなきゃという雑念が減った。最初のうちは、こうやって集中できる時間はボーナスタイムみたいなもので、そのうちまた雑念が湧いてきて、元の状態に逆戻りするんだろうと予期していたし、今の状態が一時的なものであると思っていた。

しかし、そのうちより雑念やいろいろなことをしなければ、という焦りは消え、そのような幅を広げたい衝動よりも、次へ、さらにその次へと進みたい衝動に置き換わってきた。その頃になって、これは一時的な状態ではなく、価値観が相転移したんだな、という事を薄々気が付き始めた。そして、今、卒業シーズンという最も焦燥感が駆り立てられる時期において、やっと確信できた。

もう、青春ステージはステージクリアしたのだ。と。だから恐れるべきは、青春ステージに逆戻りする事ではなく、朱夏ステージが不十分なまま白秋ステージ行ってしまう事だろう。

白秋ステージで戦うべきものはなんだろうか。衰えや鈍りとの戦いだろうか。だとしたら、達成目標は、自分のやってきたことが自分の手を離れて独り立ちして、究極的には自分の引退もしくは死後も、自分のなした事が元の木阿弥にならないようにする事かもしれない。

そう考えるなら、知恵もメンタルも体力も全てが充実していて、一番簡単に邪魔や障害を排除できるのが朱夏ステージだ。青春も楽しかったが、そう聞くと朱夏はもっと楽しそうだ。だとすると、これからはより忙しくなるだろうけど、進行に行き詰まっていたら、前のステージにあえて行ってみるのも良いかもしれない。やりこみ要素とはそういうものだ。

また今年も桜が咲き、卒業シーズンを迎えた。今は桜を見ると大学に入った当時を思い出すが、あと何年もすればもっと幅広く、在学していたすべての年月を思い出すのだろう。桜が咲いている間は、忙しさを忘れ、古いステージを、古いステージのやり方で探索するのもまた人生のやりこみ要素として忘れずに覚えておきたい。

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