ボクがボクであること(ii)
言葉にならないものを、言葉にしたいと思う。
切ないとき。寂しいとき。口から、そのとき、その場にふさわしいとボクが納得できるような言葉は出てこないことが多い。
それでも、言葉にしたい。どうにも説明できないかもしれないその感情を、言葉にしたい。それは、衝動にも似ているのかもしれない。
*
(i)を書いてから、随分と間が空いた。
ボクが両親と、特に父親と接する中で感じてきたこと。コントールされたくないと、そう抗う気持ち。ボクとは誰なのか。誰がボクをボクたらしめているのか。それはもしかすると、ボクではないのではないか。
そんな気持ちは、常に傷を負うことを伴うものだった。だからこそ、ひょっとするとボクは心の機微に、より敏感なのかもしれない。
傷を負った、その傷口がしばしばヒリヒリと痛むように。
そう思う時が、ある。
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年老いた人。手押し車を、腰が曲がった背中で一生懸命押すのをみるとき。
なんとも言葉にならない、切なさのような感情がこみ上げる。
年老いた人。一生懸命、スマートフォンでメッセージを送る。フリック入力なんて、できない。何回も何回も、同じ文字を叩く。目を細めながら。
なんとも言葉にならない、切なさのような感情がこみ上げる。
この気持ちは、切なさという言葉で形容できているのだろうか。なぜボクは、その行為にその切なさを感じるのだろうか。何が、どんな経験がボクに、そう感じさせているのだろうか。
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他人から見たボクがどのようであるかは多様だと思うが、少なくともボクは自分のことを、とても弱い人間だと思っている。
たくさん傷ついた。たくさん涙も流した。
イギリスに住んでいたとき。いじめを受けたボクは、両親にも相談せず、一人ベッドで悔し涙を流し、悲しい気持ちを昇華させようとしていた。
野球部で、後輩にレギュラーを奪われたとき。学校の帰り道、少しだけ回り道をして、近所の高台から海を見て、少しだけ泣いた。
人前で涙することはほとんどないからか、ボクのことを強い人間だと、そう言ってくれる人もいる。けれどもボクは、どうしようもなく弱く、そしてそんな弱さを人に見せることが得意ではないから、いつも一人で、たくさんの努力をしながら、その弱さと向き合うのだった。
その裏側には、ボクがボクでありたい、そんな風に願うボクがいる。そんな気がしている。
誰にもコントロールされない、ボク。ボク自身が自分に涙を見せることを認めるのであって、誰かに認められて、慰めてもらって涙を流すのでは、きっとないのだ。
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ボクはきっと自分の心の動きに敏感すぎて、泣かないという選択肢を行使することはできない。そんな気がする。
泣きたい。叫びたい。そんな、心の底から溢れ出すような感情は、ボクがその気持ちたちを言葉にしたいと願うのと同じくらいに、とても強いものだ。だから、たとえば叫びたいとき。ボクは叫ぶ、その言葉を探している。それがたとえば意味をなさない雄叫びのようなものであっても、あるいは何か文章のようなものであっても、ボクは自分が感じている思いを外に出したいと思い、そのための言葉を、頭の中で探しているのだ。
ボクにとって、そんな気持ちたちは、ボクがボクであるための、それを支えるものでもあるのかもしれない。
そしてその気持ちが言葉になった、そんな言葉たちは、ボクがボクであることを証明する印なのだろう。
その気持ちと言葉の両輪で、ボクはボクであることを自ら納得し、そして他人に示すことができるのだ。
*
ボクが、ボクでありたいと願うその先に。
ボクは、ボクをボクであると認めてくれる誰かに出会うだろうか。
あるいは、出会ってきただろうか。
ボクが涙を流すとき。
ボクが何かに、あるいは誰かに、その行為に、言葉にならない切なさのような感情を抱くとき。
そのときに、ボクのことを、あるいはボクの気持ちを、ボクの発する言葉たちを優しく包み込んでもらえるだろうか。
ボクは、ボクをボクたらしめるのがボクだけではないことを感じながら、そんなぬくもりを、優しさを、ずっと探していた。
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