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書くこと。

昔から、文章を書くことが好きだった。

Z会の通信教育を受講していた中学生の頃、数学や理科は溜めがちだったけれど、なぜか作文だけは必ず締切に間に合うように提出していた。

小学校の頃から作文のコンテストで入賞することも多く、それは高校生の時まで続いた。

影響を受けたのは北方謙三という小説家で、彼の書く短く、ハキハキとしたそのスタイルは今でも自分の文章のモデルになっているような気がしている。

自分の書く文章で誰かの心を揺さぶることができるとか、変えることができるとか、本当に思っていた時期があった。けれどもそんなことは決してなくて、自分のやりたいことは親には理解してもらえなかったし、あの日別れた誰かを取り戻すことはできなかった。そんなものだ。

写真の世界にのめり込んだのは、文章では表現することができない何かを掴もうと自分なりにもがいたからかもしれない。けれども文章、言葉の持つ力を今でもどこかで信じていて、音楽に添えられた歌詞に心を震わせることもある。

自分の気持ちを文章にすることは、孤独を紛らわすことだった。
誰もいない部屋に一人で座って、誰に電話するでもなく、誰と遊ぶ予定を立てるでもなく、なんとなくただ座って、インスタのストーリーで楽しそうな人たちを見ながら。そんな孤独感を紛らわせるために、孤独感で押しつぶされてしまわないために、今日も文章を書く。

でも一方で僕の人生も誰かにとってはキラキラした1ページに映るようで、「楽しそうですね」なんて言ってもらったりする。

ぬいぐるみに話しかけだしたらいよいよお終いだ、なんて自嘲気味に笑いながら、ベッドに自堕落に寝転がる熊のプーさんの頭をポンポンと2回叩く。きっと気楽で良いだろうな。そんな呟きを心の中で吐き出しながら。

外から見れば、僕は友達も多いように見えるのかもしれないし、自分のやりたいことをやっていて楽しそうに見えるのだろう。
けれどもそれはいつでも、孤独を紛らわせるための自分なりの遊びの一つだった。

このツイートを見て、どこかで自分と重ねていた。

友達がいなかったわけではない。むしろ多い方だったかもしれない。けれども気軽にBBQに行ったり、泊まりで旅行に行ったり。大人になってそういうことができる友達がどれくらいいるだろうか。

皆、大人になっていく。結婚して、子どもができて、新しい幸せの形を掴んでいく。そんな人たちが僕にとっては「楽しそうですね」の対象になるのだった。

変わっていったのだろうか。僕は。周りの友人は。自分のことを近くで見ていてくれたあの人たちは、今の自分になんと語りかけるだろうか。

公園で座って話しているだけで時間が経っていた日。

眠れない夜に、「まだ眠くないね」なんて言って宙に手を伸ばしていた日。

そういう不可逆的な日々の積み重ねの中で、何を失い、何を得てきたのだろうか。

繋がりは増えた。世界中に知り合いはいる。ありがたいことだ。望んでも全ての人が手に入るものではないだろう。けれども、彼ら/彼女らは知り合いであって、自分のことを誰よりも理解してくれる存在、自分に寄り添ってくれる存在、傷つけ、傷ついても話し合って乗り越えていくことができるような、そんな尊い存在ではなかった。そんな尊い存在には、まだなれなかった。本来そういう存在であるべき人たちをどこかに置き去りにして、それを選んだのは自分なのに、孤独だと一人自虐的になり、新しい世界へと足を踏み出し続けてきた。

そしてまた、孤独を文章にしようとする。

文章でしか表現できないものがあると信じて。

けれどもその過程で、孤独を手懐けようと努力するたびに、孤独に飼い慣らされていく。

Google Photosを開けば楽しそうな写真はごまんと出てくるのに、その笑顔を作ってくれた人たちの多くは、自分とは違う世界で、違う幸せの形を選び、歩んでいる。

そして、また僕は文章を書く。孤独を表現できると信じて。何かを変えることができると信じて。

誰を責めるでもない。自分自身を責めるわけでもない。

ただ、僕は文章を書く。

たとえそれがどんなに孤独な営みだとしても。文章は自分自身のもので、自分とは違う世界で幸せを選ぶことはないと信じて。


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