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彼は録音魔人/フランク・ザッパ入門


フランク・ザッパ(1940~1993)をご存知ですか?

グシャグシャの長髪にヒゲ、鋭い猛禽類のような眼光というルックスは一度見たら忘れられないので、ツラだけは知っているという人も多いだろう。名前の響きのインパクトが強いので、「名前は知ってるけど肝心の音を聴いたことがないミュージシャン」の西の横綱でもある。東は知らない。
ザッパは作曲家にしてシンガーソングライター、優れたギタープレイヤーにしてコメディアンイカれた文明批評家でもある。そして自ら楽曲をレコーディングしたミュージシャンでもある。生前だけでも60を越す大量のアルバムをリリース。デビュー以前よりプロデューサー、レコーディング・エンジニアとしての知識、技術は豊富で「録音」に対して並々ならぬ情熱を持っていた。

〇時代を変えた発明「録音」

  20世紀の音楽界に最も大きな影響を及ぼした発明は、「録音」だろう。それまで音楽といえば楽譜で売られるものだった。元来、アメリカでは楽曲を売買するのは楽譜出版社の仕事で、その店先でミュージシャンたちが新曲の譜面を演奏し売り込んだ。有名なのがニューヨーク、マンハッタン28丁目の楽譜出版社の集まった一角で、その賑やかな様子からその通りは「ティン・パン・アレイ」と呼ばれた。「録音」の技術によって楽曲の売買のフォーマットが、楽譜販売から演奏した音そのものへと移行した。これは大きな変化であり、進歩だった。
 19世紀末のわずかな期間に、エジソンが発明した筒型ロウ管に音源を記録するフォノグラフから、円盤レコードに記録するグラモフォンへと発展。20世紀初頭12インチで両面再生のSP盤が主流となって販売された。さらにナチスドイツが1930年代後半、ヒトラーのクソ長い演説をカットなしで録音、放送するため、テープレコーダーの技術を完成させた。ジャズギタリスト、レス・ポールはこのテープ技術の存在を耳にしたときに、すでに倍速録音や、オーバーダビングの可能性について模索していたというからその先見の明たるや恐れ入る。そして時は流れ、フランク・ヴィンセント・ザッパが音楽の歴史に登場する。

〇ザッパに大きな影響を与えたもの

 彼は1940年生まれ。喘息持ちの病弱な少年だった。喘息の療養も兼ねて11歳の頃にカリフォルニアの砂漠に近い小さな町に移り住んだ。父親はエドワーズ空軍基地の化学施設で働く科学者。その影響からフランクも機械や科学に対する関心は幼少期から強かったジョン・レノンと同い年の彼は、エルビス・プレスリーチャック・ベリーなどロックンロール第一世代の洗礼をモロに受けた。そして、ジョニー・ギター・ワトソンなどリズム&ブルースのドーナツ盤の収集に熱を上げ、好きな曲のレコードの型番まで言えるほどのマニアだった。この時代に生まれ育った多くのミュージシャン同様、10代の間にドラムとギターを覚え、高校の仲間とバンドを結成し、地元のクラブで演奏した。

 ロックンロールと同時に彼に強烈な影響を与えたのが、現代音楽の巨人、エドガー・ヴァレーズ。彼自身が言うには、レコード店に並んでいたジャケットの姿がSF映画に出てくる気の狂った科学者に見え、内容も気にせずにLP盤を買ったらしい。そのレコードに収録されていた曲「イオニザシオン」が彼の人生を決定付けた。「イオニザシオン」は、打楽器のアンサンブルと手回しのサイレンのみで演奏される作品で、メロディーは存在せず、ロック、ポップスしか聴いたことがない人にとっては脳みそのあさって側に位置する音楽だ。

しかし、インドネシアのガムランなどからの影響を受けたリズム構成や、チャカポコドンドンした打楽器の音は、現在の耳で聴いても充分刺激的だ。ザッパは、これにノックアウトされた。そして、ザッパも作曲に興味を持つようになり、弱冠19歳にして現代音楽家として低予算西部劇映画のために楽曲を提供した。ヴァレーズは、ほかにもテープに録音した音響とオーケストラの共演作や、電子音楽「ポエム・エレクトロニーク」などで音楽史に名を残す。作品によって楽器編成やスタイルを変えていく点においてもザッパへの影響は計り知れないと言えよう。

〇ロックスター、ザッパのキャリアの原点「スタジオZ」

 1963年、若きザッパはカリフォルニア州クカモンガの小さなレコーディングスタジオを買い取り、自身のイニシャルを冠して「スタジオZ」と名づけた。以前のオーナーから引き継いだ時差式ヘッド5トラックテープレコーダーを駆使し、自身や仲間の演奏を趣味と実益を兼ねて実験的に録音した。実験による結果は相当なもので、本人曰く「業界のお偉いさんたちがステレオは人気が出るだろうかと悩んでいるころ、俺たちはしこたまオーヴァーダブをやっていた」ほどだった。当時の音源を聞くと、多重録音倍速録音をふんだんに取り入れていて、まだ技術面での実験という範囲にとどまっているが単純なリズム&ブルーズに終わらない片鱗が垣間見える
 レコスタのオーナーとはいえ、かなり破産に近い生活を送っていたようで、週末はクラブで演奏の仕事をしていた。当然の成り行きだが、スタジオはザッパの仲間のたまり場となり、街の風紀委員に目を付けられていた。ある日、ザッパは「ポルノ・テープを作ってくれ」という発注を受けて、女性の笑い声が入ってるだけのテープを作った。すると、警察が踏み込んできて「街の風俗を乱した」として逮捕された。そもそもポルノテープの発注自体がでっちあげの、おとり捜査だった。10日間の投獄は彼の中に権力への強い不信感を呼び起こした。生涯をかけてアメリカという存在を冷徹に批判していったその姿勢の萌芽がここで生まれた。スタジオZは経営を持ち直すことなく、道路拡張のためあえなく閉鎖となった。 

〇マザーズとして浮世に登場

 1965年、参加していたバンド、ソウル・ジャイアンツをマザーズと改名。1966年にMGM傘下のヴァーヴ・レーベルからアルバム「フリーク・アウト!」でデビューする。ただし、オカマと勘違いされるという理由でバンド名はマザーズ・オブ・インベンション(発明の母)に変更された。マザーズはすぐにアンダーグラウンドミュージックのヒーローとなった。

 ザッパはデビュー前から、自分たちのライブを録音していた。それらは単にライブ音源としてミックスされるだけではなく、スタジオで追加録音、編集を施されて異なるトラックとして仕上げられることもあった。マザーズのアルバム「いたち野郎」「バーント・ウィーニー・サンドウィッチ」の2枚は、ライブ音源をベーシックトラックに用いて完成させた新曲を収録している。オリジナルのマザーズは、ザッパがバンド継続への意欲の消失によって1969年に解散。同年にソロ名義でジャズロックの名盤「ホット・ラッツ」をリリースしたのちは、流動的に腕利きのメンバーを集めたバンドをそのつど結成。便宜上それらのバンドはまとめてマザーズと呼ばれることになる。梁山泊のようなそのバンドからは時代ごとにジョージ・デューク、テリー・ボジオ、エイドリアン・ブリュー、スティーヴ・ヴァイといった凄腕を輩出している。

〇機材の変化はアプローチの変化

 70年代に入ると機材も充実し、ライブもマルチトラックレコーディングされるようになる。70年代半ばごろまでは4トラックのレコーダーを使用していたそうだが、その後、24トラックに変わり、スタジオテイクとの音質の差も急速に縮まっていく。ツアーがなければ自宅地下のスタジオに24時間入り浸り、タバコとコーヒーを摂取しながら追加のレコーディングを行い、蓄積した音源と格闘していた。

 1970年代のロックの成熟の後を追うように海賊盤業界も成長。マザーズのライブの海賊盤も大量にリリースされた。これに対し、録音魔人ザッパはザッパらしい手段で抵抗した。売れている海賊盤のジャケを丸々利用し、ジャケ記載の日付のザッパ所蔵のライブ音源を公式版としてシリーズ化したのだ。シリーズタイトルはまんま「ビート・ザ・ブーツ」=海賊盤を潰せ、だった。 
 1980年代に、アナログLP盤からCDへとメディアが変わる。収録時間の大幅な延長は彼の作品に大きな恩恵をもたらした。過去の音源の大々的な整理が行われ、ミックスの変更トラックの差し替え、さらにはオーバーダビングなどが施された。ライブ盤は曲の追加や、削除部分の修復などが行われたが、中にはギターソロがまるまる新しくなっているものもあった。過去に録音しながらもアイデアのみで未発表に終わった構想や、レコード会社の判断で当初の意図通りリリースできなかった作品にも再び着手した。
 一方で、デジタルとヒップホップの隆盛によって定着しつつあったサンプリングの手法を、ザッパは全面的に否定した。「一つの音源にかかる労力を無視した気軽な借用は許さない」という実に彼らしい理由だった。

〇録音魔人、ザッパ

 録音に対するフェティッシュさまで感じさせるほどの執着。それはライブだけにとどまらなかった。
 1971年のことである。ザッパは、ロック業界のいい加減さと、ロック・ミュージシャンたちのスキャンダラスなライフスタイルを風刺した連作をライブで上演する。これらの楽曲は「200モーテルズ」というタイトルでまとめられ、71年のツアーの総仕上げとしてメンバー出演で映画化された(ザッパ役にリンゴ・スター、謎の男セオドア・バイケル、台詞のない尼僧にキース・ムーンと、メンバー以外のキャスティングもぶっ飛んでいる)。

その映画の脚本を受けとったメンバーたちは絶句した。自分たちが、ツアーの楽屋、移動の車内、レストラン、宿泊したモーテルでしていた会話がそのまま文字になっていたからだ。メンバーは悟った。ザッパは脚本のネタの収集のため、自分のいないところでも常にテープレコーダーで会話を隠し録りしていたのだ。一部のメンバーには知らされていたのだが、知らない人間のほうが多かった。その会話にはもちろん、ザッパに対する陰口や愚痴も含まれていた。嫌気がさして、映画のクランクイン前にバンドを抜けてしまったメンバーもいた。そのメンバーは脱退の際に「嫁がやめろって言ってる」という言い訳をしたが、その会話も録音されていた。言い方がザッパのツボにはまったのか、90年代にリリースされた71年のツアー集大成アルバム「プレイグラウンド・サイコティクス」にまんま収録されている。ちなみに、ほかのメンバーが発した「ザッパに会ってなければ今頃スターになれたはず」という言葉は、のちに彼のライブで何度も使いまわされるほどのお約束となった。だが、ザッパに悪口が筒抜けでも、ザッパがそれを理由にメンバーを解雇することはなかった。勝手に録ってるんだから当たり前なのだが。 

〇ザッパはあなたを待っている

 1993年、現代音楽集団アンサンブル・モデルンとの共演盤「イエローシャーク」をリリースした直後、ザッパは癌に蝕まれ、53歳で死去。パロディのようなリズム&ブルーズと騒音主義の現代音楽が同居した驚異的なデビューアルバムから、遺作まで生前にリリースしたタイトルは60枚を越えていた。
 彼の死から早くも30年が経とうとしているが、未発表音源の発掘プロジェクト、過去の音源のリマスター盤のリリースは絶え間なく続いていて話題には事欠かない。息子のドゥイージル・ザッパや、愛弟子スティーヴ・ヴァイによるトリビュートバンド"Zappa Plays Zappa"のライヴでも、その音楽と彼の姿勢は受け継がれている。
 音楽以外では、ロックの歌詞を検閲しようとする団体PMRC設立に強く反対したり、アメリカ型の政治に疑問を持ち、デビュー当初からキツイ皮肉で政治家を揶揄したり、後年は積極的にテレビやラジオに出演して政治的な発言を繰り返したりと、とにかく反骨を貫いた。病に倒れなければ大統領選にも出馬したかもしれないとファンは思っている。それなのに、誰よりもファンにはとても優しかった
 レコード店に並ぶCDタイトルの莫大な量に圧倒されて、興味は持ったけど入り口がわからなくて諦めた、という人も多いかもしれない。だけど、何より、必ずリスナーの耳のどこかにフィットする音楽がその中に必ず見つかる。それがザッパの音楽が持つ多様性であり、彼が複雑だと言われる所以でもあるのだが…。彼の音はあなたを待っている。

 最後に彼がライブで必ず口にしていた言葉を。

「ハロー、ボーイズ&ガールズ、リラックスして楽しんでいきなよ。」

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