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#日本遺産 テレビ屋が体験した日本遺産 【1】木曽路・長野県

正式名:「木曽路はすべて山の中 〜山を守り 山に生きる〜」(長野県・岐阜県) 公式ページはこちらから

 このタイトルは何?
 と、思われた方は島崎藤村をご存じないですね。
 島崎藤村と言えば、故郷を舞台にした小説「夜明け前」。
 冒頭はまさにこうです。
 
 「木曽路はすべて山の中である。」
 
 近代日本文学の代表作からの引用ではありますが、今はもう90年も前の小説です。冒頭の書き出しまでは知らない人が多いかもしれません。
 しかしその実筆者は、タイトルは馬鹿に出来ないと実感しました。
 初めて木曽路を訪れた時の第一印象がずばり、
 
 すべてが山の中だ!・・・でしたので。
 
 ではその日本遺産「木曽路」についてお付き合いください。

山また山の木曽路
番組『日本遺産』より

 木曽路とは北は長野県塩尻市から岐阜県の中津川市まで続く主に木曽川沿いの高低差約500m、南北80キロ以上続く深い渓谷を貫く街道のことで、実は中山道の一部です。
 
 現代では京都ー東京間の往来は東海道の方が圧倒的に楽ちんです。でも江戸時代、東海道は川越えの難所が多く、それはとても面倒と、山だらけの内陸ルートを選ぶ人は多かったのだそうです。意外でした。
 
 筆者が木曽路を初体験は、車で日帰りの弾丸ツアー。都心から中央自動車道を西進し、海抜約700mの塩尻ICから国道19号線へ。するとほどなく木曽路の入口から入り、奈良井川沿いの渓谷を南へ続くのが木曽路です。
 
 日本遺産としては塩尻市と中津川市の間にある42件の歴史資産や自然景観などを構成文化財としています。
 
 国道19号を進むうち「●●宿」の看板が点々と現れます。かつて中山道六十次のうち木曽路の宿場は11あったようですが、塩尻市の「奈良井宿」、南木曽町の「妻籠(つまご)宿」には、昔の佇まいがよく残ります。

中山道六十九次のうちの42番目の宿場 妻籠宿

 両者は外国人にも人気の観光地。
 古い木造建物がずらり並ぶさまは、石文化の目には異国情緒満点なのでありましょう。妻籠宿の南隣の馬籠宿はあの島崎藤村のふるさとで、馬籠宿本陣だった島崎藤村宅跡も構成文化財です。

 観光地としてはすでに成り立っていますが、日本遺産としての木曽路は、宿場の良さだけではありません。正式タイトルにある通り、「山を守り、山に生きる」。つまり人々の葛藤と苦労あって今がある、という人の歴史です。
 
 木曽路の通る木曽谷は木曽川の浸食で形成されたV字谷で、土地の9割が森林で占められました。産業と言えば林業で、豊臣秀吉の時代から、年貢は材木で納めたという土地柄でした。
 
 ところが江戸時代になると、全国各地で城や城下町の建築ラッシュが起こり、状況が一変。材木需要の高騰から乱伐が起こり、森林資源が枯渇していったのです。それが証拠に江戸時代の浮世絵では、木曽路の山はみな禿げ山です。

今からは想像できない山の姿
番組『日本遺産』より転載

 木曽の森林資源の象徴は木目が緻密な木曽ヒノキ。古くから神社仏閣の建築に重用され伊勢神宮のご神木として使われたほどでした。しかしそのヒノキも枯渇。大変な事態です。木曽谷を治めた尾張藩は、その危機にあたり山林の保護に舵を切り、伐採制限を敢行。「木曽五木」と呼ばれる「ヒノキ」、「アスナロ」、「コウヤマキ」、「ネズコ」、「サワラ」の伐採を禁じました。  尾張藩が発したその御法度は、
“檜一本首ひとつ 枝一本腕ひとつ”
と伝わるほどの厳しさ。枝一本で腕をとられたらたまったものじゃありませんね。

では、その後どうなったか?
実はそんな大ピンチから、木曽の伝統文化が誕生するのです。
その歴史が、日本遺産が訴えるストーリーの核でした。

山中に残る木曽ヒノキの古木(水木沢天然林)


伐採禁止のお触れのあと、尾張藩は木曽の領民に自由な伐採を禁じる代わり、地場産品の開発を奨励。木工用の白木の支給を始めました。すると木を切ってきた人たちは、斧を木彫道具に持ち替え、独自の木工品を開発します。そうして形となったのが「曲物(まげもの)」「漆器」「お六櫛」「ろくろ細工」といった木曽の伝統工芸品の数々なのだといいます。

ろくろ細工
木曽特産に歴史あり
「お六櫛」「木曽漆器」などは今も観光客に人気

 森林の危機に前後して、江戸幕府による五街道の整備がなされます。木曽谷は東西の主要街道となり、“木曽十一宿”と呼ばれる宿場が興隆します。地場産品の開発と宿場の発展とが重なり、木曽の経済は回りはじめます。
 
そんな中でもうひとつ、木曽路の隆盛に一役買ったのが、古代からの霊山、木曽御嶽山の信仰でした。
 
江戸時代になり、御嶽山の信仰は一般庶民にも広かれました。
御嶽山の参拝客は木曽路を必ず通るのです。

御嶽山の異様の素晴らしさはこの目でみて初めて実感できる

参拝客は木曽路の工芸品をお土産として持ち帰ります。すると帰郷したお土産と思い出話を通じて木曽路の評判は江戸や京で拡散します。そして評判を伝え聞いた人々が続いて木曽路にやってくる。好循環です。
 
それは江戸時代のひとつの観光ブーム。多くの俳人や歌人も訪れ、木曽路の景色を歌に詠みました。その結果名を高めたのが「木曽八景」。構成文化財の名勝「寝覚めの床」はそのひとつです。

こちらも現場で見るとスケールの大きさに驚く
木曽路に行ったら見るべき

 商売繁盛に沸き立った木曽路。しかし時がたつと、近代化の洗礼を受けてしまいます。東京―神戸間に鉄道が開通し、交通の主要ラインから外れたのです。
 
 往来する旅人は減り、宿場の宿や茶屋も徐々に閉店に追い込まれ寂れていきました。しかし、実は木曽路の人々はそのピンチにも抗った!日本遺産ストーリーに書かれていないところにも番組スタッフの目は光ります。
 
 それは1976年の画期的な出来事。南木曽町の妻籠宿が文化庁の定める「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)」の選定第1号になったのです。
 
 ことの次第は次のようです。
 今を遡る50余年前、深刻な過疎問題をどうにかすべく県が明治100年を記念する事業の一環として妻籠宿の26戸の建物を解体修復。その後、町独自の町並み保存条例を制定しました。メインストリートだけでなく周りの農地や森林など、宿場の環境全体の保護保存も徹底。その活動が認められたこともあって重伝建第一号に選定されるにいたったとのことです。2年後には塩尻市の奈良井宿も重伝建に選定されました。
 
そうした動きは重伝建選定の10年以上前から、住民の危機意識の高まりから起こってきたとか。住民の間でいつの頃からか共有されたキャッチフレーズがありました。

妻籠宿を守る住民憲章


「売らない」
「貸さない」
「こわさない」
 
保存をすべてに優先させるための住民同士の固い誓い。
ただでさえ暮らしが困窮している中、売りもしなければ貸すこともしない。そしてどんなにやけになっても自ら壊さない。そんな覚悟がなければ木造の建物がずらりならぶ町並みまるごと守れるものではありませんね。

妻籠宿の保存事業が始まったのを記念して昭和43年に始まった「文化文政風俗絵巻之行列」
構成文化財ではなかったが取材。江戸の賑わいを大いに感じさせてくれた。
番組『日本遺産』より転載


さてもうひとつ触れておきたいことがあります。
日本遺産として大事な要素として、木曽の山中で構成文化財とされた、「赤沢自然休養林」と「水木沢天然林」の両保護林があげられます。
 
江戸初期の伐採禁止の結果、木曽の森林は息を吹き返しました。いま林業も復活していますが、かつての禁令のおかげで何百年と生きながらえた大木が残っているのです。
 
赤沢自然休養林は昭和中頃の林業不振以降、全国初の自然休養林として公園になった場所。平均樹齢300年という木曽ヒノキやサワラなどが林立し、日本における森林浴発祥の地と言われたりするそうです。

赤沢自然休養林の森林列車


 
園内にはかつて林業で使った森林鉄道があり乗車体験ができます。伊勢神宮の御神木をとった林区でもあり、式年遷宮の際に伐採された切り株が大事に保存されています。

伊勢神宮のために伐採された木の切り株


もうひとつの「水木沢」のほうは崩れやすい土壌であったため、降雨による土砂災害を防ぐためにあまり伐採が行われず、やはり平均樹齢300年という大木群が残っています。
 
ところで初めての木曽路の旅となった弾丸ツアーですが、東京西部の住宅地を出発したのが朝の5時で、途中休憩をはさんでも9時頃には奈良井宿に到着、宿場の見学をざっとしたあと19号線を南下。途中王滝村で御嶽山の偉容を拝容し、妻籠宿へ13時半頃到着。遅いお昼をいただきながら、宿場の本陣を利用した資料館の見学、散策と買い物をしたら時刻は15時半。時間の都合で馬籠宿は断念しましたが、飯田のICから中央道にのり帰途についたら20時には帰着しました。やっぱりせめて一泊はしないとしっかり見られませんが、東京から日帰りできないこともありません。それなりに風景と歴史ムードを体感できましたので、時間に限りのある方は安全運転でぜひどうぞ。
 
参考に次のページもどうぞ

木曽曲物は他の地域の曲物とは違うようです

伝統的建造物群保存地区(文化庁ページ)

それでは、また

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