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30年前のウクライナ訪問・思い出・経験・印象14 シンフェローポリ、鍾乳洞、お別れ


1993年7月10日(土)20時半の夜行列車でモスクワを発って約1カ月、
この日は 8月11日(水)、旅も終盤(~14日)。
シンフェローポリではスダクで会ったミコラと会う約束がある。


バフチサライを去り、シンフェローポリ へ行く

マリノフカ村はバフチサライ地方のシンフェローポリ寄りの端に位置する。研究者達のキャンプはその村付近の山に設営されていた。2晩お世話になった皆さんにお礼を言ってそこを後にした。

https://maps.app.goo.gl/schmtnKvEUoeVzo3A
バフチサライ地方
マリノフカ付近まで続いている
https://maps.app.goo.gl/GqCY14rqGSuD8Ltz7
シンフェローポリ地方
バフチサライ地方と隣同士

シンフェローポリ地方の中の赤い線の内側が
シンフェローポリ市

バフチサライからこの旅の最後の地となるシンフェローポリに向けて出発。
このキャンプに(勝手に) 招待してくれたドイツ人Jさんも、シンフェローポリへ一緒に行くという。キャンプは飽きたのだろう。旅は1人の方が楽だが、まあいいか。

既に1往復半した鉄道駅までの道、3㎞ほど歩き、列車に乗った。

1479km駅~シンフェローポリ駅
歩くと16㎞以上
電車で20~30分

https://yandex.com/maps/-/CDqTvHZF

バフチサライ方面からシンフェロポリ方面へ車で走るだけの動画 ↓



☆ 番外 ☆
世界一長い シンフェローポリ ⇔ ヤルタ 間のトロリーバス

トロリーバス 52番 の経路 ↓


↓ YandexMap 約2時間半 (車だと1時間半余) 約82km


2009年のニュースから ↓


乗る所から到着まで、そして車窓。
(この動画の4分26秒で映る小さい店が東洋風!! ) ↓


シンフェローポリについての情報

クリミアの首都
名称はギリシャ語由来

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%AA
Wikiのスクショ (魚拓) を取っておく
(書き換えられる可能性があるため)

2014年3月17日クリミア自治共和国がウクライナから独立しクリミア共和国の首都となった。そして翌日3月18日にはロシア領に編入され、ロシアの連邦構成管区クリミア共和国の首都となって今日に至る。」
   ・・・とある。(住民投票でクリミアの住民が選んだ事なのは事実。併合されたのではなく編入したのである。)


シンフェローポリ今昔

インフラ(2013年と2016年の道路の比較)


古いシンフェローポリの動画 ↓




シンフェローポリの動画

森翔吾さんの動画 ↓


シンとカーチャんねるのご夫婦がクリミア半島を訪れた時、動画の2分ぐらいの所で少しだけシンフェローポリに触れているので、URLだけ紹介。
https://youtu.be/wRC48PpO_LU?si=-NvJt5x9uZaX5Ezs


空撮 ↓


高台からの町の風景 ↓ 2分弱


町の中心部の有名所と場所を淡々と映像だけで紹介 ↓


駅から、中心部の歩行者天国の通り、裏道や公園 散歩 ↓



2時間以上の4K動画 ↓
https://youtu.be/2MtpqfPNtTA?si=_gvizA4cRaBTSoJH




シンフェローポリの見どころ


中心部に博物館や美術館がいくつかあるが、規模は小さめのよう。

シンフェロポリ美術館
 
地図 ↓

 Wiki(ロシア語) ↓

 美術館のHPからコレクション ↓



タヴリダ中央博物館

https://yandex.com/maps/-/CDq-EPzQ
https://yandex.com/maps/-/CDuKa066

ストリートビューの入口扉の矢印をクリックすると、中に入って見学できる。見てみたら、地方の博物館くらいの少なめのボリューム。

https://yandex.com/maps/-/CDq27UOr


https://yandex.com/maps/-/CDq2zSzg

これは2010年のストリートビューだが
ゲオルギーリボン
が飾られている!

2014年にロシアに編入された前までの
約20年間ウクライナだった。が、
その頃はウクライナでも独ソ戦の犠牲者を悼んでいた。

現在はウ国内では禁止されているかもしれない。


博物館名にタヴリダを冠していることで、タヴリダ国立大学と関連していると分かる。大学の1918年の設立時、ここがタヴリダ県(ロシア帝国時代) だったことに由来する。

発案者はソロモン・クリム(クルィム)Крым で、クリミア半島の ”Крым” と同じである。

Крым 姓から、どんな民族かと思ったら…カライム人とのことだ。

チュルク語を話すカライム人は、何世紀にもわたってクリミアに住んできた。その起源は大きな論争の的である。ほとんどの現代科学者[9][10]は、彼らをクリミアに定住し、キプチャクの言語を採用したカライ派ユダヤ人の子孫と見なしている。一方で、彼らをカライ派ユダヤ教に改宗したハザール人クマン人またはキプチャクの子孫と見なしている人もいる[11]。多くのクリミア・カライ人はセム族(ユダヤ人)の起源説を拒否しており、ハザール人の子孫であると認識している[12]。ハザールの歴史の専門家の中には、カライムのハザール起源説に疑問を呈する人もいる[13][14]。」

・・・だそうだ。
前回の手記の ”チュフト・カレ” にひっそりと隠れるように住んでいた民族の、ユダヤ系の ”カライ派” を調べてみたのと繋がり、興味深かった。



中央市場

https://youtu.be/ZscrDUPBQVo?si=4s7fFUgxLs2mFcGX
上で紹介の新旧比較の動画からのスクショ

googleストリートビュー

https://maps.app.goo.gl/4PbsJZacqG2b5R1g8

Yandex 空撮360度

https://yandex.com/maps/-/CDq2zQY1

https://yandex.com/maps/-/CDuKa066


google map

https://maps.app.goo.gl/7y7m6E2pi1Rq2Bkf8

現在の地図を見ると中央市場の周りにも、市場群があるようだ ↓ Yandex

https://yandex.com/maps/-/CDuMyL0j



歩行者天国の通り


歩行者天国の、エカチェリンスカヤ通り、プーシキン通り

https://yandex.com/maps/-/CDqpj-2c

エカチェリンスカヤ通りの名が、
Google地図ではカール・マルクス通りのまま(古)

動画の2分ほどから歩行者天国通り ↓





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シンフェローポリ1日目

覚えている場所


歩行者天国の通り
(博物館)
市場

https://maps.app.goo.gl/ucNCyy5Y9g8qB7QU7
黄色が駅

赤が博物館
下の紫が市場


https://maps.app.goo.gl/9bLVSMkPicJKgGys9
黄色が
水色の十字が歩行者天国通り
赤が博物館
下の紫が市場


手帳のメモから…
 シンフェローポリでJさんと街を回る。
 博物館に行くと、閉館中だった。
 市場へ行ったところで豪雨に見舞われる。
 ずぶぬれで寒くて、3時間以上足止めを食った。


市場にて

上 ↑で見た市場の衛星写真では、現在 敷地内に見えるのは屋根ばかり。
当時、食料品コーナーは他の市場同様で屋内だったかもしれない(記憶なし)が、その他に青空市場もあり、それぞれのブースで販売者の各自が用意していたパラソルと台とか、小屋等で、空きスペースもあった。


雨の市場は 青春映画の1シーン!?

昔から映画で、若い男女が歩いていると急に雨が降り出して、2人がびしょびしょになり、若者が急に恋に落ちるというシーンを見る。
今この手記を書いていて思ったが、そういうこと?な出来事が…

市場を歩いていると急に雨が降り始めた。
夏の夕立なのですぐ止むと思ったが止まないのでどこかで雨宿りしていたはずだ。屋根のある食料品売り場の所かもしれない。


が、そこへ避難するまでに濡れ鼠になった。髪の毛もびしょぬれで、手で絞ると水が一気に落ちた。インテリで紳士なはずのJさんがそれを見てタガが外れたのかサンタさんのように響く声で笑った。

近くで売っていたドイツ製のチョコを見つけて買い、自分にくれた。そばに売っていたバラの花1本も買ってプレゼントしてくれた。花を貰って喜ばない人はいないだろう、ちょっと気まずかったけど。

そして急に手を取ると、市場の小さな空きスペースで でたらめに踊り出した。サッカーのワールドカップで優勝した時みたいな踊り。Jさんは体も大きく力も強いので手を捕まられたら同じ動きをしてしまう…。可笑しさと気恥ずかしさとで自分もケラケラ踊りながら笑い出した。それを見てJさんももっと笑う。青春映画の1シーンを地でいくようなシチュエーションだった。人は皆、足早に横を素通りしていく。

普通の精神状態なら知らないけど、疲れと寒さと非日常感で。
クリミアで、市場で、ドイツ人と、日本人が、突然の土砂降りに見舞われて…。しばらく笑いが止まらなかった。


あとで
バラの花は手に持たなくてもいいようにと、Jさんがリュックに挿してくれたが、その後、歩いていて首元で折れてしまったのをJさんが見つけ悲しそうな表情を浮かべて「ごめんね」と言った。


Lの発音 と セーター


3時間降り続いた土砂降りの為、急に気温が下がってブルブル震えていた。
Jさんはセーターを着ていたが、店で別のを選んで購入した。自分はその様子を思考停止状態でそれをぼうっと眺めていた。
と、Jさんは来ていたセーターを脱ぎ始めたので、どうしたのかと見ていると、新しいのを着た。で、脱いだセーターをはというと、こちらに差し出した。その時疲れと寒さで頭が空っぽで、すぐ飲み込めなかった。Jさんは着ていたセーターをくれたのだ。

差し出されたセーターを前にぼんやり眺めていると、Jさん は ” Put on. ” という。
自分はこの英語の意味「何だっけ」と考えていた。もう一度 ” Put on. ” と言っても受け取らない自分に向かって ”Pe-e-e-ase!” (pleaseプリーズ)と叫ぶように言った。

” Put on. ” の意味が「被って」だと分かったと同時に、初めて ” L ” の音が聞こえた!!! 「これ、Lの音じゃん!」

それまで英語のRとLを聞き分けられたことがなかった(ロシア語も同様に区別される)。その後から、ロシア語でも РとЛが聞き取れるようになった。(その後30年で残念ながら退化した)
(ドイツ人の英語でLが聞き分けられるようになった!)

雨は上がったが、気温は上がらず肌寒いまま夕方になった。がJさんのセーターのお陰で寒さを回避できた。親切な人とは思っていたが。感謝。

寒かったから有難かった。Jさんは親切だった。貰ったセーターは擦れて薄くなっている箇所もあったが暖かかった。その後しばらく活躍してくれた。軽いので旅には持ち歩いたが、残念な事に5か月後スロヴァキアで冬の旅の途中、劇場に置き忘れたと思う。誰か使ってくれていればいいけど。



Jさんとお別れ と 難問

ところで、この日、シンフェローポリに来た目的は、スダクで会ったミコラに招待された”兄弟のうち”へ行くためだ。ミコラが教えてくれた電話に出た女性の夫が、駅の方まで迎えに来てくれることになった。

自分はそれをJさんに告げながら、頭の中では、その前にJさんをキャンプの町までの電車に乗せて、安心して迎えを待つ、とシュミレーションした。


お迎えの時間をJさんに伝える。暗くなる時間なので、Jさんはキャンプへ戻った方が良いし、見送ると言ったが帰ってくれなかった。送られるなんて男らしくないと思ったかもしれない。心配されていたかもしれない (1人旅なんて何度もしているのに)。

ターミナル駅なのでJさんが帰りの正しい電車を見つけられるか心配でもあった。まさか、仕事帰りかもしれない出迎えの人と一緒に、自分だって初対面なのに、Jさんの電車を捜して見送りするなんて考えられない。ましてや、友達だからと一緒に訪問できるのを期待していたかもしれないが、珍しいからと誘ってもらえる外国人の特権も含めて、今回はありえない。

キャンプへ戻るよう何度も説得した。が、「”友達”に引き渡してから帰る」というので諦めた。(自分の英語の質が低くて伝わらなかったかも)。それに、あとで気まずい思いをするのも予想できたので避けたかったけど。


だって(男)友達の家の人に迎えに来てもらうのに、Jさん(男)と一緒だなんて居心地が悪い。道路で男性と待っているところへ、別の男性が迎えに来る。1人の男性から別の男性へって、父から新郎へ引き渡されるヴァージンロードの新婦みたいで、変な気分だ。

出迎えと、Jさん置き去り(残酷な仕打ち)

迎えに来てくれた おじさんとは簡単に会えた。

自分が2人を紹介し合ったが一瞬で終わった。お別れの挨拶はさらっと略式だった。「Jさん、さようなら」と、暗い路上に放置して去った (ヒドい、冷たい!)。

(おじさんの手前、振り返って手を振るなどはしなかったと思う。)


そうなることは分かっていたので先に帰したかったのだけど…。Jさん、去り行く2人の人影を見ながら「え?何これ、これからどうする?」っと途方に暮れていただろうな…。その日ちゃんと帰れたか心配だったが、確認していない。

Jさんはドイツの連絡先はくれたが、それっきり、手紙は書かなかった。(当時はSNSどころかメールも(一般的に)存在しなかった、もしメールでもあったら書いていたかもしれないが。)
人との出会いは、旅での醍醐味でもある。Jさんからも、いくつかの事を学んだ。 ((なのに見捨ててごめんね))


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ミコラと再会

おじさんに連れられて家へ向かう

迎えに来てくれた男性に、歩きながら、ありがとうを言い、名乗った。
”男と一緒にいるようなやつ ” と思ったかもしれない。少々バツの悪さを感じた。心なしか、むすっとしている気がする。おじさんなんて、こんなものかもしれないが。


兄弟か ”従”兄弟か

「ミコラのお父さんですか?」と聞くと ”おじさん” だと答えた。

何故そう聞いたかというと、ミコラは「兄弟の所へ行くからシンフェローポリで寄りな」と言っていたので。

従兄弟という単語は、ちょうど日本語の漢字で ”” の ”兄弟” と書くように、ロシア語も 「つ目に親しい」”兄弟” のような語だが、その形容詞を省いて”兄弟”とだけ言うことが多い。

       ””   ”兄弟”   (日)
  「つ目に親しい」”兄弟”   (露)

ミコラの ”兄弟” が1人で住んでいるのかと思ったら、両親と同居で、あれ?っと思ったのだ。つまり従兄弟とその両親の家だった。

両親の住所は以前、別の場所のを聞いていたし、変だと思ったが、これで納得…


従兄弟の家でミコラと再会

おじさんに連れられて家(団地)に到着。
ドアを開けると従兄弟と叔母さん、そしてミコラが迎えてくれた。
従兄弟の年を聞いたか忘れたが20歳位かな。

ミコラの顔を見たら、何だろう、また会えて何だかとっても嬉しかった。心が温かくなった。3日間の不自由な英語から解放されたせいもあるのか、故郷へ帰ったような…。


部屋を割り当て

小母さんはきれいな部屋へ案内してくれた。「娘の部屋だけど、お嫁に行って別な所に住んでいるのよ。ここを使ってね。コーリャは息子の部屋で一緒(のベッド)に寝るから。」(ベッドが足りなくても床に直接布団を敷くなどはないみたいだ。室内なら床でも布団で寝れる日本人とは違う。)

自分は、そういえばプレゼントを用意するのを忘れていたと気づいた。
それで、申し訳ないと思いながら、Jさんが買ってくれたチョコをおばさんに渡した。「あら、どうして…」と目をウルっとさせて喜んでくれたから、良しとする。


風呂場を2時間占有

何せ数日シャワーも浴びず、この日の大雨に当たって、沼のようなにおいを放っていたであろう自分はお風呂を借りたかった。そして、冷え切った体が温まり気持ちが良すぎて何と2時間も占有してしまったのである。天国過ぎて遠慮も制御もできなかった。


ペリメニ

ペリメニをごちそうになった。夕飯だったか翌日の朝だかは覚えていない。
が、小母さんは「これ、” 貧乏ペリメニ ” っていうのよ。ひき肉の代わりに米を半分入れてるのよ」と言ったが、最高においしかった。


ペリメニとは

  ~  ~  ~  ~  ~

「なんちゃってペリメニ」の作り方を紹介

自分特製の簡単「なんちゃってペリメニ」の作り方

材料:1,市販の餃子の皮
   2,合い挽き肉
   3,玉ねぎのみじん切り
   4,ニンニク
   5,塩、コショウ 少々

(全部お好みで適当な分量。
3,4,5は無ければなくても良いし、
入れたければ他の具材を入れてもいい)

作り方:
・1以外の具をこねる。
・1の餃子の皮に具を入れて包む。
(包み方が大事! 帽子を被る赤ちゃんの顔のような形になる)

・出来たものを熱湯で茹でる。
(浮いたら少し待ち1個取り出しで火が通ったか確かめる)

茹で上がったら1人前を皿に取り、バタースメタナ(サワークリームみたいな)を掛けて食べる。又は醤油を付けても美味しい。お酢からしなど少し足しても。お好みで…

※沢山作って冷凍しておけば、好きな時に食べられる。

  ~  ~  ~  ~  ~

包み方は下の動画をどうぞ。(開始場所:包む所)



 
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シンフェローポリ 2日目


この日の記憶は鍾乳洞へ行った事だけである。



シンフェローポリから行ける鍾乳洞の紹介


↓ trip.com の ” 観光・自然・洞窟 ” で検索 ( 7件)

tripadvisor.jp の ” 洞窟 ” で検索 ( 4件)

↓ google地図 の ” 洞窟 ” で検索 

https://maps.app.goo.gl/5vrh66dukokqGbiu6
洞窟で検索すると沢山出てくる

↓ ”クリミアのガイド ” サイト でも 7件紹介されている。
https://gidcrima.ru/simferopol/dostoprimechatelnosti/?vid=peshchery




中でも最大級なのが↓ に紹介する ”大理石洞窟”である。
(大理石洞近くにも最大級なのがもう1つあるが下で地図のみ紹介)

大理石洞

Мраморная пещераムラモルナヤ・ペシェラ
Marble Cave 大理石洞窟
Wiki ↓

「洞窟の寸法と洞窟の探索された通路の長さは2050m、深さは63mで、周遊観光ルートとして整備された通路は約1.5㎞。」
「この洞窟はシンフェロポリ市から17キロメートル離れたところにある。 クリミア山脈の中で最も飽和した山脈の一つであるチャティル・ダグの探検中に発見された。この山塊はカルストトンネルで満たされている…。」
「大理石の洞窟という名前は、大理石のような石灰岩の堆積物の近くに位置するため…」
「戦前にはこの装飾的な石の板を採取するための採石場がありました。」(*近くにあるムラモルノエには採掘村がある)
「石はモスクワの地下鉄、マヤコフスカヤ駅とプロスペクト・ヴェルナツコヴォ駅の一部に。」
「世界中の古生物学者はこの洞窟を「ノアの方舟」と呼んでいます。 ここで私たちは、マンモスの死骸からハエの幼虫に至るまで、非常に異なる700種以上の動物、哺乳類、両生類を発見しました。」
1987年 独特の美しさを持つ巨大な洞窟が発見されました。」
(Google翻訳、抜粋)


2015年の動画 28分 前半は一般向け・後半は上級者向けコース

洞内でのオーケストラ・コンサートの様子

↓ 4分半頃から映る道も歩いた…(2つの鍾乳洞の間の道)

↓ 1分54秒で写る四角の駐車場を覚えている!ここでバスを長時間待った。



大理石洞 の地図

↓ Google地図で 大理石洞

↓ 地図と写真 ~ Yandex Map に多数の美しい写真が投稿されている


因みにの別の大鍾乳洞、”エミネ・バイル・ホサル洞”は別名”マンモス洞”はこちら。↓ 地図と写真 ~ Yandex Map
https://yandex.com/maps/-/CDuYZHyb


シンフェローポリから大理石洞窟までの道のり
(現在)
車で33㎞
徒歩で27.4㎞
バスを使って1時間44分、53分バスで、降りてからの4.1㎞は徒歩

https://yandex.com/maps/-/CDuY6V6D



バス停から山を一つ越える

当時はバス停が現在とは別の場所にあった。

左のオレンジ色の丸が大理石洞窟、右の赤丸が当時から四角くあったパーキング(バス停)

https://maps.app.goo.gl/MBpVFVf73kqMcCej8
https://maps.app.goo.gl/M2t5myE1YVYNhV7x5
右の 四角い所にバス停が当時はあった (臨時かもしれない)

バス停から、大理石洞窟への山道
1,38 км 徒歩17分 と表示される。

https://yandex.com/maps/-/CDuYfW6Y
バス停(赤)のすぐ北側にも鍾乳洞がある。
その道は通らずに、バス停からすぐ左’(西側)へ行き
ショートカットしたかもしれない。

上の辺りをオープンストリートマップで見ると標高1000m~920mになっている。あれ?下っている?
当時、道しるべ等はなかったので道を間違って遠回りしたのだろうか?

https://osm.org/go/x9VtFnKT_-?layers=Y
オープンストリートマップで高さを検証

右の、縦に走る幹線(シンフェローポリからヤルタのトロリーバスが通っている)から、地図の下の方で左(西)に入ったような気がする。

https://maps.app.goo.gl/JPebRfyErW39V245A

  (残念ながらルートの納得のいく検証はできなかった)


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いざ鍾乳洞へ


この日の手帳のメモ:
10時半ごろ家を出て、1番のトロリーで郊外の鍾乳洞へ行く。7㎞の道のりを2時間半くらいかけて歩いて、山を越えて、やっと2時半ごろ着く。1時間くらい待って中を見た後...またしてもひどい雨。ずっと足止めをくって、やっとバスに乗せてもらったりして、9時半近くにうちに着く。」




(メモの中で山を歩いた”距離”や”時間”は、今地図で見るのと随分と違っているようだ)

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この日、4人で出かけた。ミコラ、叔母さん、従兄弟、そして自分。

当時の ” 1番のトロリーバス ”とは幹線道路を通るヤルタ行きのだったかもしれない。途中で山の方へ入るバスに乗り換えたはずだ。
待ち時間が長い記憶が残る、大きな四角い形に作られていたバス停&パーキングでバスで降りた。

そこから過酷な徒歩だった。そこで有名なもう1つの鍾乳洞近くを通過し、山を越えるためずっと上り坂で、道なき道であった。這いつくばるような沢もあったし、大きな石を乗り越える時などには引き上げてもらわないとならなかったりした。男達はどうだったか覚えてないが、叔母さんと自分は空気が足りず、ハアハアさせながら気遣い合って登った。


道が間違っていたか、” 遊歩道 ” が遠回りだったか、山歩きも目的だったか、は分からない。

バス停から少なくとも山を一つは越えた。
かなり大変な思いをして上まで登ると、素晴らしい風景が待っていた。

右は、ミコラの従兄弟と叔母さんと


鍾乳洞で

当時 発見から6年目の巨大鍾乳洞「大理石洞」は観光化が始まったばかりだったようで、簡素な入り口だった。

洞内ではグループにガイドが付き、説明を聞きながら進んだ。「つららじゃないので決して取らないように。」と言われて、付いて歩くが、一番後ろで眺めていて遅れると、ガイドのおじさんが戻ってきて仏頂面で睨んでいる。もちろん行動に移す気はないが、1本欲しいなと心の中で思っていなかったと言えば嘘になる。

鍾乳洞の入り口にて
出た時は既に少し暗い

昼間は天気も良かったが、夕方には悪天候が始まり寒くなった。メモには豪雨に遭った旨が書いてある。はっきり覚えてないながら、その後も大変だったという記憶はある。



素晴らしい鍾乳洞だった。
鍾乳洞なんて大好きなのに、人生で他に岐阜の鍾乳洞しか入った記憶がない。




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シンフェローポリ 3日目


手帳のメモより:13(金)
朝早く起こされて、家の人みんなが外出するのに合わせて去る。駅へ→切符を買いたいが買えずに並び、おじさんから高い値で買う(失敗)→名前を変えてもらおうと町のカッサへ行くが人が一杯。並んだ末に諦める。町中を回る。デパートやらいろんな店を見て回り、食べ物を調達して、夕方8時過ぎに出発。(20分前にミコラにTelして寂しくなる) 列車の中で16歳くらいのアリョーシャと向かいに座る。朝、両替 1ドル→6000クーポン。


最終日の始まり

自分にとって、とうとうこの旅の最後の日だ。この日、モスクワに戻ると決めていたのだ。もちろん、もう少しいてもいいよと言ってはくれたが。

ミコラからは、スダクで採って乾かしていた貝殻をプレゼントしてもらった。これは思い出の品だ。ミコラが民宿でお土産づくりのこの作業をしていたのを見ていたから。子供の頃、集めていたので貝殻には興味もあった。実家の ”貝殻箱 ” には今でも入っているはずだ。

家を出る

この日は皆仕事だかで、朝、全員家から出ることになっていた。

ミコラと従兄弟はダーチャでの作業の準備をした。従兄弟の家のダーチャだけど、親戚は手伝うのが普通だ。

道具などを入れたバケツを両手にぶら下げた従兄弟同士の2人と一緒に、
自分は荷物を全部持って家を出た。


自分はモスクワ行きの切符をまだ持っていなかった。駅で切符を手に入れなければならない。
駅へ歩きながら
「切符買えるかなぁ~?」と言うと
「お前なら大丈夫だよ」とつっけんどんにミコラは答えた。


永遠の別れ

駅のそばまで来ると、
「俺たち向こうだから…、じゃあな」とミコラが言った。
え、突然だな…、せめて何かお別れの会話みたいな物をしようと思ったけど思い浮かばない。
「おじさんとおばさんによろしくね。ありがとう。」は言ったはずだ。
そして、自分は握手をしようと手を差し出した。

が、ミコラは、返してくれなかった。
「これ(両手に汚れてるバケツ2個)持ってるからさ」とバケツに目をやる。手に汚れが付いていても良かったのに…。

「じゃ、気を付けてな」と言って、2人はあっさり去って行った。
その後ろ姿を見送りながら、もう2度と会えないんだろうな、と思っていた。



モスクワ行きの切符をダフ屋から

一番にすべきことはモスクワ行きの切符を手に入れる事。
この時期から考えても、切符売り場で当日の切符は買えない。
多分売り切れだろうから、ダフ屋かまた車掌に直接掛け合うという事になりそう。


駅のホームに出てみると、モスクワ行きの切符を持って立っているおっさんがいた。大人の1枚と子供の1枚を売っていた。

値段を聞くと、法外な値段。もちろん、当時の普通の日本人の感覚で金額を聞いたら大したことないが、1か月ウクライナにいたら法外な値段だ。が疲れるし面倒だったため、言い値で買った。
が、そのおっさん欲張りだった。で財布をのぞき込んで「もっとないの? (ロシアの) ルーブルでもいいよ。」と言ってくる。

実は、自分がロシアに渡ったその年1993年には2度、紙幣が変更になり、旧紙幣が使えなくなった。交換せず財布に1枚500R札が残っていて、本当は記念に取っておくつもりだったけど、意地悪したくなってそれを渡した。その金額でもおっさん満足ではなかったけど、納得して離れた。


長距離列車の切符は(パスポート等を見せて)名前を入れてもらって買うので、本来は変更してもらうべきだが、カッサに人が多すぎて諦めた、と手記にある。

とにかく、切符は手に入ったし、後は夜の出発まで自由時間だった。
一人で好きに歩き回れる、ちょっとホッともした。


店や市場を回り、列車の中で食べる用の食品を調達している途中での写真。
なぜこの場面かな、ドイツの旗に似てたからかな??

市場はにぎわっていて楽しい気分


さよならシンフェローポリ


夜、乗車前に、” ミコラはもう帰宅しているかな ”と思いながら、駅の公衆電話で従兄弟の家に電話した。「私だけど、もうすぐ出発するから、さようなら~」電話口がミコラだったかよく分からなかったけど…、乗り遅れたら大変だ、走って列車へ戻る。

列車は20時過ぎに出発した。モスクワに向かう。

列車内で夜は更け、列車の単調な音を聞きながら眠る。


帰路


手帳のメモ:
14(土)
1日中列車の中→夜まで
夜11:30駅着12時頃うちに着く


列車の中の男子高生

向かいの席だか、上の席だか覚えてないけど、アリョーシャって男子高生がいた。荷物を運んでいたから、夏休みの運び屋アルバイトかもしれない。

発車すると、車掌のおばさんの所でお金を払っていた。どうしたのか聞いたら、子供用の切符だったので差額を払ったんだそう。よく聞くと同じダフ屋から買ったと分かった。

途中で、おばあちゃんが作ってくれたという、空きビンに入ったお弁当を取り出した。半分食べたところで、窓を開け、ビンごとそっと下に落とし、割れる様子を見守っていた。(実験??)



ロシアとウクライナの国境

列車はゆっくり27時間くらいかけてモスクワまで走った。朝から夜中までずっと暇だった。のんびり外を眺めている列車の旅は好きなので苦ではない。

一応国際列車なので、時間は覚えていないが、途中でウクライナとロシアの国境がある。帰りの列車でも、行きの列車では何もなかったと同様、国境などないかのように何もなかった。


それまでの人生で既に何度か、列車で国境を越えた経験はあった。が、何となくいつもワクワクする。

同じ年のロシアとベラルーシの間の国境も何の検査もパスポートチェックもなかった。ロシアとウクライナ間でも、国境付近は、少し停車したり徐行したり、走ったりを何度か繰り返すので、この辺が国境なのかな、と思っただけだ。



モスクワのキエフ駅で


夜中近くに、モスクワのキエフ駅に到着した。

疲れていたが帰宅までもう少し、と思って車外へ出た。夜中だから肌寒い。



とその時、男子高生アリョーシャに頼まれた。
「友達が迎えに来るんだけど、探してくるからちょっと荷物見てて。」
そう言い捨てて、走って行ってしまったが、すぐに、友達を連れて戻った。
(なにかマズい物でも密輸して、自分に押し付けられてはいないか、ってちょっと心配だった、が何もなくて良かった)



帰宅

ほぼ真夜中だったが、列車がそれ以上遅れず、地下鉄の動いている時間で助かった。当時はソ連崩壊と共に治安の悪化が始まった程度の時で、モスクワの夜中の1人歩きは、心配は少しだけだったが、久しぶりなのでドキドキした。

帰宅翌日は旅の片付けや、友達に帰った報告などして、このウクライナの旅は終了した。


1か月以上、日本語を話さなかったので、日本語の単語がすぐに浮かび上がらない現象が起きた。1カ月話さなかっただけで、母国語が不自由になるものなのかな?と不思議な気がした。(後に夫にそのことを話すと、「そんなのはお前だけだ」と笑われた。1カ月で母国語忘れ始める、って確かに早すぎだ。)(笑)



その後

撮ったフィルムを写真屋さんに持って行き、現像・プリントしてもらう。よくできた人物写真は、番号と枚数をピックアップして、また写真屋へ行き焼き増ししてもらった。結構手間のかかる作業だったが、見ながらもう一度楽しむこともできた。

お世話になった人たちに手紙を書いて写真と一緒に送った。キエフのユーリャやオデッサのオーリャなど、返事をくれた人とはしばらく文通したりもした。



ミコラからの電話

ミコラにももちろん書いて送った。
手紙を書くような人じゃないとは思ったけど、電話はくれた。
「写真待ってたよ~!」と喜んでくれたからよし。
その後、もう一度手紙を書いてみたけど、やっぱり電話をよこした。


自分はその年は、旅に出る事が多かった。もしかすると不在の時に掛かってきたかもしれないが、何も残らないから分からない。そして次の年にはそこから引っ越してしまったから…。その後の事は何もわからない。


    ー  ー  ー



今までに知り合ったウクライナ人の中でたった1人のウクライナ語話者だった。

年も近かったしミコラとは友達になれたと思っていた。
彼との間にロマンチックな出来事はなく、
あったのはただ ”お兄ちゃん” のような気の置けなさと親しさだった。


最初に会ったのはスダクで、出会った事も ↓ に書いている。

スダク1 でも触れたが、彼は炭鉱夫だった。炭鉱の事は詳しく聞いたかどうか、覚えていない。「こっちに遊びに来たら地下深くに連れてってやるからな」って冗談ぽく言ってたことは覚えている。

そのずっと後にニュースで、炭鉱で事故が起きたと何度か聞いた。岩盤崩落などで1度に大勢が犠牲になることもある。彼はその時、現地にいただろうか、無事だっただろうか?

そして2022年。ウクライナ政府は60歳までの男性全員を軍に召集すると発表していた。その年は60に達していなかったはずだ。

1993年当時30歳だった。30年経って、今60歳のミコラはいるだろうか?
冗談を言いながら、ダーチャで野菜でも育てて生きていてくれたらと思う。



























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