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橋仔頭糖廠藝術村 滞在日記✏️

私は台湾に来るとなんとも定まらない気持ちを持つ。
それは来る度に台湾の複雑さが身に染みてくるからだろう。

この国では一つの視座でものを語ることはできない。
エスニシティの視点から語られているのを目にするが、実際に「台湾人」としての帰属意識がどこまで共有されているかは分からない。

私の持つ台湾との繋がりは日本統治時代、3世代に渡って住み暮らした高橋家の記憶だが、隆盛を誇った諸物はすべて面影になり、いまは時々祖母から話を聞いて想像を膨らませるほかはない。

その統治時代も「統治」という言葉が常に暗い影を落とし続ける。
無論、私自身、台湾に来ればその影を常に背負い続けているのだ。
だから、日本人で台湾のことを「親日」だとか言って喜んでいる人たちは正直、嫌いだ。

台湾に来てカワイイだとか美味しいだとか、それだけで片付けて消費して帰っていく日本人は、まさに日本人だなと思う。
自身の立つその足元に一体どれだけの血が染み込んでいるのか、想像すらしないのだろう。

だから、たいして何も考えず米国が煽る中国危機やその他プロパガンダに乗っかって、憲法改悪万歳。軍備増強万歳。でミサイルを日本海側にズラリと並べて米国が敵視する国や民族集団対して米国と一緒になって敵意をわざわざ表明する。

会ったことも話したこともないような相手を敵視してそれを全世界に表明するなんて、なんて馬鹿げたことだろう。とは、日本人は思わない。
日本人にとって世界はアンパンマンのように善悪ニ項対立であり、ロシア、中国、パレスチナがバイキンマンで、欧米こそがアンパンマンでありスーパーマンなのだ。

今も昔も、多くの日本人の政治社会の認識には「お上」しか存在しない。比較対象は無い。「お上」が世界の枠組みそのものなのだ。

日々膨大に垂れ流されているように見える情報も、結局は資本力の差でより目の前に現れてくる頻度を操作することができる。
その頻度は日本人の場合、そのまま情報の「正確さ」とイコールになっている。なぜなら、目に触れる回数が多い分、誰もが知っている情報となり、「皆んながそう思っている」という前提が、情報の正誤のバロメーターとなっているからだ。

DAPPIというTwitterアカウントが問題になったが、まさにそれは政府が裏で膨大な公的資金を投入して情報操作をしていたという裏付けに他ならない。
無論、細かいことを言えば政府の直接性云々という話になるが、一般市民は法律家ではない。そんな言い訳は全て無用だ。

どう見ても考えてもクロなんだから、どう免れても本質的に免れ得ないのは、安倍政権時代の公文書改竄問題と同じだ。
この件では一人の良心的な国家公務員が自殺にまで追い込まれ、それを指導した現場の上司は昇格すらしているという事実をけして忘れてはならないだろう。醜悪極まる事実である。

看過できないのは、仕返しとばかりにリークされた民主党が主導していたメディアの創立で、結局はどいつもこいつも考えることは一緒なのだ。
相手がやっているからうちもいいでしょ。ではあまりにセコい。情けない。己を貫かない野党に既存政権を倒してより良い未来を形作ることなどできやしないだろう。

話を戻すが、日々膨大に溢れているように見える情報も、莫大な資金を背景に個々に届く情報の操作ができるものであり、それは無論のこと「お上」も利用する。
「お上」が主導する情報と「お上」自体の発言が一致すれば、それらの情報は「真実」であると多くの日本人に認知されるのだ。
だから、日本人の世界認識の枠組みは、「お上」次第であると言える。

さて、そん嘆かわしい「日本人の劣等性」ばかり並べ立てても仕方がない。
政治社会的には劣等そのものでも、文化的、生活的には特筆すべき優秀性を保っているということには自信を持っていい。

自身で抱えられるサイズ感の範囲では、日本人は本当に優秀さを発揮することができる。
綺麗好きだし意識も細かい。無論、大雑把で片付けができない人もいるのは当たり前だが、総体的にはやはり綺麗好きで意識が細かいと言えるだろう。

トランジスタラジオやホンダのバイクはやはり今でも輝く技術のストーリーを感じることができる。
数千年経ってもいまだ太古の空気を失わない場所もいくつかあるし、式年遷宮を続けている伊勢神宮はやはり凄みがある。

反面、政治が絡む都市部を中心とした都市構想や自然エネルギーの大型太陽光パネルや風車の設置などは、普通では考えられないほどお粗末だ。
その原因は場当たり的な利害だけで動いているからに他ならない。

100年、200年先の日本人のことなんて誰も考えはしない。
食うだの食えないだのベラベラ言うが、実際の食べ物を育てたりはせずカネのことだけ考えて死んでいくのがほとんどの日本人である。

せいぜい自分の家族だけ幸せであればいいというのが、政治家含めた日本人のイメージスケールの限界なのだ。
こんな民族にそもそも日本というサイズの国民国家は不釣り合いだし、民主主義など理解できるはずもないのだ。事実、有権者の2割程度の意向しか反映されないまま国家運営がなされ続けているというこの国では、民主主義が機能しているなどとは到底言えない。

かつて岸田首相が中国を指して権威主義と民主主義の対決だなんて言っていたが、大笑いもいいところ。日本は国民の総意で権威主義を採択している。
国民国家において、選挙に行かない、政治社会に関心を持たないとは、そういうことなのだといつか理解できる日がくれば望ましい。

翻って台湾ではどうだろう。
例えば2020年の総統選。なんと74.9%だ。すごい数字だ。

国民の7.5割が政治社会に関心があるなんて、日本人には想像すらできないだろう。
何しろ、こちらは政治社会に関する発言をすると「寒い人」として疎外されてしまう社会なのだ。

民族主義的な発言をする人ばかりが意図的に持て囃され、反意を示す人は全て「反日」として片付けられる。そして「反日」のレッテル貼りをされた人は大陸や半島の血を継ぐものと断定され吊し上げられる。驚きでしかないが、それが日本社会の事実である。
そうした面では全く成長しない社会。それが日本だ。

台湾では「台湾人じゃない」などと言っても大して意味がない。事実、多民族社会であり、歴史も重層的で、帰属意識も多様だ。
そんなお子ちゃま論法では話はできないし、欧米への留学経験者が殆どだから、日本で言う「ご飯論法」なるものも稚拙過ぎてまさか政治家が当たり前に行うなど考えられないし、菅元首相のように、同じ答弁を壊れたラジオのように繰り返すなど、到底考えられないだろう。
もう一度言うが、壊れたラジオ答弁をするのは“首相”なのだ。きちんと驚いておいてほしい。

蔡英文がそんなことをしたら、どうなるだろう。
おそらく総統府前にとんでもない数の群衆が抗議のために押し寄せるだろう。
民進党は終わりを告げて、すぐさま事実上中国に飲み込まれて台湾人は政治社会的自由を秒で失うことになる。

分かるだろうか。社会的緊張感がまったく違うのだ。
だからこそ、台湾は国が生きている。社会に脈動を感じる。
日々の生活、思いが投票行動に圧縮されて、人々はまた色々な思いを抱えて情報と共に日々の生活を送る。

そんな台湾には打てば響く感受性がある。時間や歴史への敏感な感性がある。常に「我々とはなにか」という命題が突きつけられている。
そして巨大な大陸の圧力と実質的ないくつもの工作が日々仕掛けられている。

そんな民族意識の発端が、日本統治時代にある。
抗日運動があればこそ、台湾人は台湾人たる矜持を持つに至ったし、その矜持を持つ知性こそ、台湾人エリートを育てる教育にあったのだ。

これは「だから日本統治時代は素晴らしかった」という話ではない。それだけはきちんと前提として述べておかなければならない。

ただ、事実として、日本統治以前は時に首刈るミステリアスな山の民として原住民が存在し、平地に住まう人との間には盗賊がおり、マラリアが全島を覆っていた。
日本統治が始まり、盗賊と原住民と平民は互いに手を取り合い抗日に奮闘し、巨大な清国の城壁に囲まれた貴重な領土は解放され、諸々のインフラが整備された。

台湾人への教育格差は教材からして歴然たるものがあったが、そこは日本人教師が頑張った。これぞという台湾人の生徒を押し上げることを惜しみはしなかった。
そのために極めて優秀な台湾人が多数輩出され、台湾人の民族意識は飛躍的に上がった。

もし日本敗戦がなくとも、どのみち台湾は極めて合法的に抗日運動を展開することで台湾人としての地位を確立できたのではないだろうか。
それか、結局は暗殺や武力で鎮圧するような愚行を日本政府は犯してしまったかもしれない。本当にそれをせずに済んで良かったと、今の台湾と日本の関係を見て思う。

日本統治時代に抱いていた大陸への同胞意識が敗戦後打ち砕かれたように、そのまま抗日運動が続いて大陸の方へ近づいて行ったとしてもやはり、結果は同じことだったと思う。
旧時代的で台湾をそもそも下に見る当時の大陸の態度は、諸々のテクノロジーや生活の向上面以外では今も大して変わらないだろう。

やはり台湾と中国は近くて遠い距離感を持っていると思われる。とはいえ一概には言えず、中国にこそ帰属意識を持つ層も少なくはないし、出稼ぎから土着化しつつある新住民系も年々増えつつある。そこが台湾社会のおもしろいところなのだ。

単一民族の妄想に取り憑かれ、集団社会を理解しようとせず、結局はゲームに逃げてドラッグまでやり始め、全てが逃げの戦法ばかりで緩やかに落ち続ける日本とは、大きく違うのだ。

美味しい、カワイイの、その下に埋もれている台湾のおもしろさ。
それを見つめることができれば、少しは日本人も総体的に成長できるのではないだろうか。

かつて東アジアは日本から多くのものを学んだはずだ。
今度は日本が東アジアから学ぶ番なのだ。何を。それは今一度、東アジアの受け皿のような形をした日本と呼ばれるこの島を、根本から見つめ直すことに他ならない。

結局いつも、私は台湾に来ては日本のことを考えている。

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