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たとえ主権がなくても私は今日リンゴの木を植える🍎

バイデンが日本の軍事費の引き上げを自分の功績だと自画自賛し、岸田首相はNATO首脳会議出席を表明した。

日本はNATO加盟国ではないが、バイデンが語る通り、NATO加盟国に求める防衛費のGDP中2%維持という数字を通して事実上日本を組み入れたようなものだ。
その証拠に、加盟国でもないのに何故か首相は首脳会議に出席する。

この事実に対し、左派は日本の米国追従に呆れ憤慨し、右派は主権国家たる防備の増強に小鼻を膨らませ、米国との意思疎通はあるが自立した国家の英断であると仰反るのだろう。

はてさて、このお門違い。どこから手をつけていいものやら。

まず、左派が持つ「米国のケツ舐め外交」に対しての無念はそろそろ諦めたらいいと思う。また、右派があたかも国家の主権があるかのように胸を張る空虚な虚勢もいい加減おしまいにしたらいい。虚しく恥ずかしいだけの挙動だ。

日本を明確にNATOつまりは西側陣営であると表明したに等しい一連の流れは、いよいよ米国が中国と世界を二分し始めたと捉えていいと思う。
それを踏まえてみれば、西側が寄ってたかってロシア潰しに乗り出した経緯には、何らかの中国との裏取引があっただろう。

「ロシア潰すけど手出さないでね。その方が将来的にもいいでしょ。これでロシアを潰せればラッキーだし、戦争の長期化で財政削っておくだけでも効果は大きいでしょ。今後も仲良くとは言えないけど、良いライバル関係で切磋琢磨し合っていけたらいいよね。」といった具合ではないか。

具体的な取引内容なぞ想像しきれない。きっと莫大な額の何やらなんだろうとだけ薄らと思ってみるだけだ。そこにはもちろん、経済だけでなく個人の主権や生命に関わる重要な内容も含まれるだろう。

前回記したように、BRICS5カ国のGDPはG7を超えている。つまりG7は形骸化し実質的な意味を持つのはG20であり、時代は既に米国一極支配のパワーバランスを後景にしていると見ていい。

BRICSの中で衝突が予想された中国とロシアの2大国は、ロシアのウクライナ侵攻でかなり後退した。
もしそれが軍事衝突の懸念としたら、西側が煽ったこの侵攻劇はたしかにやむないことだったのかもしれない。この2頭の虎は、たしかに面子をかけて地球すら滅ばしかねない危険性を孕むからだ。
ただし無論のこと、軍事侵攻で犠牲となった一般市民や全ての人々が被った実質的被害は人道的にあってはならない暴挙故であると明記しておく。

前回記したとおり、残るはインドだが、インドと中国ならば軍事衝突の懸念は薄いし、米国と中国ならば良い意味で緊張感ある外交が行われるだろう。
さて、こうした背景から「自立した国家としての日本」を考えることを止めたと前回は宣言をした。

その考えに変わりはない。

しかし、新たに明確な指針に気が付いたのでメモしておきたい。
まず、米国が絡む軍事、医療、大規模農業、原発などはこの先ずっと主権を握るのは不可能だろう。例外として考えられるのは第二次世界大戦級のことが起きて世界の権力構造がシャッフルされた場合だが、その時この国が勝ち組か、はたまた、また賭け間違えて負け組に属するかは分からない。

米国はコントロールしやすい自公政権をバックアップし続けるだろう。
それは明確にカネや情報の流れに現れる。たとえば米国の薬やワクチンは日本に認可をぶっ飛ばして入ってくるが、鎬を削り合うはずの日本の製薬会社は認可が遅々として進まない。欧米で禁止される様々な有害化学物質を含んだ商品が日本では規制されず、あまつさえ販促まで行われる始末。首相が独自外交に乗り出したら最後、CIAの情報リークによって検察が巨悪の逮捕劇と銘打った虚構の正義を演出する。これらは既に行われていることであるが、まぁ現実にこんな具合だ。

つまり、国内で政権転覆し米国支配から逃れるのは基本的に不可能と見ていい。

大事なことは、日本人が本来得意であるはずの、スケールの小さい話だ。つまり、市民の目線を【市民に有利な国内統治】に絞るということ。
目指す先を【福祉国家】として明確に定めながら、日本が米国の軍事倉庫であり、中国への防壁であり、ATMであるということはある程度黙認しておきながら、政権をつつくカードとして市民間で共有し監視していく。監視をしないと永久にそして無限に死ぬまで米国は日本という国家そのもを消費し尽くしてしまうだろう。

いかに米国が最終的な富の吸い上げ先として不動の位置に着いていても、やはり大事なことは【税金や国家財政の流れ】にあると焦点を絞っていい。

これでだいぶ思考が楽になりはしないだろうか。
我々は米国属国の民ではあるが、小さな自治を発揮することは可能だ。
米国の利に抵触することは全て不可能であっても、理念や合理性に基づいた主張と構造の構築については十分に渡り合えるだろう。
たとえば、軍事や医療を通した米国への数々の上納金は国家予算内として据え置いたうえで、財務省の独裁を崩すような消費税廃止、積極財政の選択と社会福祉の充実はけして不可能な国家ビジョンではないはずだ。

要は我々市民が知識社会化し、政府の行う分断統治の手法に易々と引っ掛からず連帯することができるかどうかに全てがかかっている。

ただし、これは今世紀中にはまだ無理な話だろう。
そのため、私が生きているうちにその未来を眺めることは不可能だろう。

また、日本人だけでは絶対に不可能なことだと今は分かる。それが実現するのはおそらく日本人の半分以上が外国人かその合いの子に入れ替わった頃だろう。
しかしそれでも、けして未来がないわけではないということが、微かな、僅かな、薄らとした、確かな希望であると言えはしないだろうか。

それに、文化に携わる者としていえば、現在の文化を取り巻く行き詰まった社会の価値観は、外圧や内圧の爆発によってしか変わらないだろう。
そうした意味では多民族国家としての未来には大いに期待したい。

とはいえ、喫緊の課題は国家の存続よりも地球環境の存続だ。
これも結局は日本人の自浄作用には期待できないので、地球環境に対しての国家の在り方は欧米の実践から外圧によって変えられていくだろう。

敢えて単純化して言うが、白人には理念と理想が先にあり、現実を変えていくというバイタリティーが備わっている。我々アジア人は自然に対しての適合性が高いが故に、目の前の事象にただただ順応を繰り返すことしかできない。よって、近視眼的な世界観から脱せず、つまりは理念と理想を基盤とした未来へのプロセスを描けないのだ。その代わり、順応とその範疇内での構造的な富の構築は人並みにできるといった具合だ。
付け加えると、勉強不足のため中東、アフリカ系については分からない。

さて、本来ならば、たとえば隣り合う敷地の幾らかは管理地として畑かもしくは草地、低木林とする、もしくは炭素循環についての計算によって導き出された必要な間隔と必要な面積で雑木林を囲むように都市計画を行う、流域学や水脈に根差した地域環境づくりなど、都市開発や住宅地における法整備が必要であるが、これも日本人には不可能だ。

土が大事なのは、散歩などで住宅地から畑や森林がある地帯へと徒歩で移動してみるとよく分かる。どんなに感覚の悪い人でも空気の違いには気が付ける。それほどの差があるのだ。
二酸化炭素の排出が抑えられ、炭素が循環し、空気が冷える、その環境を肌で感じられる感覚まで我々はまだ失ってはいないのだ。

とはいえ、殆どの人は誰かに促されないとそこで受けた感覚を自覚できないだろう。なにしろ四六時中スマホで耳目を塞いでいるのだから。

それに、そんな環境はとんでもない勢いで我々の周囲から姿を消していく。全ては固定資産税、相続税を基盤とした不動産屋の土地転がしゲームに地球の大地が弄ばれているという構造的な欠陥が引き起こしていることだ。

これらは米国の統治とは関係なく国内統治の話だが、無論のこと土地関係でのNo. 1利権者が米国に献金しまくれば、日本の地域社会も米国の管理下に組み込まれ、そのうち米国そっくりの街並みが米国の建築関係業者によって造られていくに違いない。

そんな構造を全て認めた上で、この島と、より良い関係が築けるように努力していけたら、私はこの島に生まれた1人の人間として満足しながら死んでいけるのではないだろうか。

相変わらずなんの希望もないのに等しいのだけれど、諦めと限定的な力点を置くべき場所が明確になっただけ、なんとなく晴れやかな気持ちが勝手にしている今日この頃なのである。

そうそう、分からない人がいるかもしれないので、表題の内容はマルティン・ルターの「たとえ明日、世界が滅びようとも私は今日リンゴの木を植える」という言葉をもじっていると書き添えておく。

絶望なんて、してやる必要は全くないのだ。

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