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迫真の入門書~古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』

孤高の天才として知られる哲学者の人生と難解な思想を一望のもとにはるばる見渡し、高くそびえる「入門」の壁をひょいと超えさせてくれるいい本が出た。

最近立て続けにウィトゲンシュタイン関連書を出版している気鋭の哲学研究者・書き手による、300pを超える迫真の入門書である。

構成や文体は平明で簡潔、どこまでも柔らかい語り口で前期思想からの重要タームと論理の説明をひとつひとつ丁寧に積み上げていく。それでいて、ウィトゲンシュタインが影響を受けた周辺思想家の系譜もしっかりと辿りながら、主著以外にも数ある講義録や手稿の参照も忘れない。全体として、非常にバランスが取れた良書である。

実のところ、完全な初心者が易易と読みこなせるかというとそうでもない。著者は巷にあふれる平板で退屈な教科書的ウィトゲンシュタイン紹介に抗うように、初学者への丁寧な語りかけのトーンそのままに、基本的な用語の説明から理論の概説へ、そして結構やっかいな哲学的論点の小道にまで幾度となく分け入っている。

文字を追いかけ、理路と概念を自分なりに整理しながら順々に捕まえていく作業のなかで、読者側のやる気と粘り腰が試される。その代わり、入門を銘打つ類書から1歩も2歩も踏み込んだウィトゲンシュタイン"像"が見えてくる。


かの思想の全体をひとまず前期と後期に二分するのが哲学史上の通例だが、本書の特色はそのうち後期の記述にある。中心概念である「像 Bild」を軸に回っていく後期思想の色鮮やかさとダイナミズムを、そしてそこから照らし返される前期思想のそれまでとは異なる相貌を、豊富な具定例を交えながら丁寧に噛み砕いていく。

概説書などではすっ飛ばされることが多く位置づけが難しい過渡期の自由意志論や、ゲーテ形態論との位置関係の変遷などへもしっかり目配せが効いている点、初学者以外にとってもかゆいところに手が届く。

前期『論考』については、本書ではその大きな流れをうまく説明し切ることに徹している。極めて特殊で異形な原典から一定の距離を置きつつ、オブラートでふんわり包み込むようなやや抽象度が高い説明が続く。後期の充実度に比べるとやや弱い印象があるし、前後の文脈も含めて原典のほうがわかりやすいと感じる箇所も。

ただここで、本書に1年先立って上梓された同著者の『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(角川選書)がこれまた出色の『論考』解説書であることには触れておきたい。むしろこちらの方が本書以上に激賞したい一冊で、いずれ日を改めて別記事で取り上げようと思う。が、とにかく『はじめての〜』の前期パートはこのまま丸っと呑みこなし、その後この『論考』本へと向かう鉄板ルートの存在は本書の価値も上げている。

『はじめての〜』の内容に戻る。終盤に至るにつれてやや駆け足になり「重要キーワード集」のような風体になっていく気もしないでもないが、それらを補うブックガイドの充実っぷりと一冊ごとへの詳細なコメントは、それだけで価値が高い。晴れて入門を終えた読者の眼前に広がるウィトゲンシュタイン読解の長き道への良き道標を提供してくれる。


本書の立ち位置的に、清水書院「人と思想」シリーズとある程度被るのかなとも思っていたが、いざ読んでみると「人と思想」の朴訥と硬質に比して、読者に寄り添う優しさ、滑らかさがあった。また一方で、前述のようなこまかな議論への立ち入り方の上手さの点においても、随所に光るところがあった。

哲学史テキスト程度の前提知識(高校倫理の教科書の該当箇所レベル)は持って始めるのが理想と感じたが、全くの初学者でも十分読み進めることができる。あるいは、かつて入門を超えられずに門外でうなだれている読者にも、本書は救いになろう。ウィトゲンシュタイン入門書として、非常に有益な一冊である。


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