画集が紡ぐ愛の軌跡

高瀬 甚太

 五月のゴールデンウィークの真っ最中のことだ。大阪府警の原野警部から食事に誘われた。滅多にないことだ。こういう時は得てしてろくでもないことが起きるものだと思っていたら本当にそうなった。
 「今日の夜、空いているか?」
 つっけんどんな口ぶりで、原野警部に食事に誘われたのが午後3時のことだった。
 「じゃあ、今日の午後7時、キタの茶屋町で」
 天六か京橋の立呑み屋が専門の原野警部がキタのそれも茶屋町を指定した。そのことだけでも驚きだったが、この時はまだそれほど深く詮索していなかった。美味しい食事をご馳走してもらえるのであれば場所は厭わない。そう思っていたからだ。
 大きな出版社なら日常的に忙しいのだろうが零細出版社は結構、暇をもてあます。一日中、仕事をしないこともあれば、一週間、鼻をほじくりながら事務所の固いソファの上で昼寝をして過ごすこともあった。私のように一人で出版社を営んでいるような者は、忙しい時は夜を徹して時間を厭わずやるが、そうでない時は自由気儘に過ごす。五十歳を過ぎた今は特にそうだ。
 阪急梅田の紀伊国屋の前で待ち合わせをした。午後六時の時間帯とあって人通りが多く、原野警部が指定した待ち合わせ場所も混雑していた。行き交う人の流れを見ているだけで疲れてしまう。早めに到着した私は、所在無げに本を読んでいた。
 原野警部は10分遅れで現れた。警部は時間に無頓着なわけではない。多忙であることは以前から承知している。10分遅れぐらいは想定内だ。
 警部が招待してくれた店は、茶屋町のロフトの近く、旧い町屋風の二階建ての建物だった。豆腐料理がメインのちょっと小粋な店に入った。
 「編集長、どうぞ座ってください」
 掘り炬燵風の四人がけの席に対面で座ると、警部は「もう一人来るから」と言って、自分の隣の席を指した。
 午後6時、店は客で賑わい混雑していた。豆腐料理がこんなにも人気があるとは意外だったが、健康志向の今だからこそ受けるのかも知れないとメニュー表を見て思った。
 ビールが先に運ばれて来て、警部が私のグラスに注いだ。私もまた、警部のグラスに注ぐ。そうしている間に前菜が運ばれてきた。警部はコース料理を注文したようだ。次々と豆腐料理の逸品がテーブルの上に届られた。
 「ところで今日はどんな風の吹き回しなんですか。こんなお洒落な店に私を誘うなんて」
 警部は少し困惑した表情で私に言った。
 「実は、編集長に折り入ってお願いしたいことがあってな……」
 話しかけた警部の目が入り口に注がれる。客がもう一人来る予定だと聞いていた。警部はその客を待っているようだ。
 「もう一人の客が来てから話したほうがいいだろう。まあ、一杯、グッと空けてくれ」
 ビールの瓶を片手に警部がビールを薦める。
 大瓶は瞬く間に空になった。警部が手を挙げて「ビール追加!」と大声を上げた。
 「もう一人の客というのは一体どなたですか?」
 しびれを切らして尋ねた。しかし、警部は、入り口に視線をやったまま何も答えない。しばらくして、警部が
 「おい、こっちだ、こっちだ」
 と入り口に向かって手を振った。入って来たのは女性だった。笑顔でこちらへ近づいてくる。
 三十代後半といったところか。警部が待ちかねていたその客が着物姿のスラリとした超美人であることに驚いた。
 「どうも、遅くなりまして」
 地味な色合いの着物だったが、アップした髪が卵形の小さな顔によく似合っていた。
 「紹介するよ。こちら私の友人の井森編集長だ」
 警部に紹介されて、「井森です。よろしく」と座ったまま頭を下げた。
 「水野由佳と申します。編集長のお噂は原野さんから常々聞いております。今日はどうかよろしくお願いします」
 私は再び、水野由佳に向かって頭を下げた。嫌な予感がした。美人がらみの話はいつも余計なトラブルを巻き起こす。しかも今度は原野警部が一枚噛んでいるのだ。
 ひと通り挨拶が終わると、警部が早速、今回の用件を切り出した。
 「編集長、実はこちらの由佳さんはわしの女房の妹でなあ。ミナミで小さな小料理屋を営んでいるだが、そこに出入りする客の中に画家がいて、その方がとても素晴らしい絵を描くらしい。由佳さんは、何とかその画家を世に出したいと思っているようだ。そこで画集の出版が出来ないものかと、わしに相談に来たというわけだ」
 なるほど、画集の出版の話だったのかと合点がいき、警部が私をこの店に招待した理由がようやくわかった。
 「編集長、一つ、相談に乗ってやってくれないか」
 空になった私のグラスにビールを注ぎ込みながら警部が言った。
 「出版のことでしたらいくらでもご相談に乗らせていただきます。ただ、ご承知のように現在、未曾有の出版不況ということもあって、出版界は厳しい状況に立たされています。特に画集となると売れ行きの面ではさらに厳しくなるでしょう。そうした状況を踏まえた上でお話を聞くのであれば……」
 暗に企画出版は難しいということを伝えたつもりでいたが、警部には真意が伝わっていなかったようだ。
 「由佳さん、彼は出版社を三十年余りやっているベテランだ。この機会に何でも相談したらいい。出版でも何でも大抵のことは聞いてくれる」
 私は慌てて原野警部に言った。
 「警部、そんな無茶なこと、言わないでください。それでなくても貧乏な出版社なんですから。水野さん、今、お話したように当社で企画出版は到底無理です。それをご承知の上ならいくらでもご相談に乗りますが――」
 この際、はっきりと言っておく必要があった。相手に無駄な期待をさせると失望の度合いが深くなる。それでなくても、持ち込み客の多い昨今だ。そうした客のほとんどが、自分の作品に異常なほどの自信を持っている。だから常に相手を傷つけないよう断ることに苦心惨憺する。
 「実は私、絵にはあまり詳しいわけではありませんが、今年、その方に誕生日祝いだといって一枚、額に飾った絵をいただきました。それまでその方が画家だとは知っていなかったので驚いたのですが、絵を見てもっと驚きました」
 料理が運ばれてきて、水野由佳の話が中断した。さまざまに細工した豆腐がテーブルを飾っていく。それを眺めながら私は、手に持ったグラスのビールを一気に空けた。
 「何と言ったらいいのでしょうか。モジリアーニの『黒いネクタイの女』を思わせる退廃的で情感の漂う、そんな女性の肖像画でした。写実でもなく、抽象的でもないその絵は、モジリアーニに感じは似ていましたが、オリジナリティに溢れた独特の色彩と構図で、見る者を圧倒させる迫力がありました。私はたちまちその絵の虜になって、作品に見入りました。そして、ある時、その方に訊ねました。他の作品も見せていただけませんか、と」
 そこまで言って彼女はグラスに入ったビールを少し口にした。警部は食べるのに忙しいのか、しきりに箸で豆腐料理をつまみ、せっせと口に運んでいる。
 「その方の招待を受け、アトリエを訪問しました。そこで私は百点におよぶ作品群を目にしました。その時の感動は、とても言葉で表現出来るものではありませんでした。ただただ感激して、その方に尋ねました。この作品の発表はどうなさっているのですか、と。するとその方は笑って、『たまに個展を開きますが、場末の小さな画廊では人もほとんどやって来ません。才能がないのかなと落ち込んだりもしますが、描くことが好きなのでやめられません』と言って笑われました」
 ピーク時を過ぎたのか、店の喧噪は少しだけ収まった。コース料理もすべて出尽くし、警部が冷えないうちに食べるようにとしきりにすすめるので、一旦、話を中断して豆腐料理に箸を伸ばした。
 これが豆腐なのか、と驚くような豆腐の食感だった。元々の豆腐の質がいいのだろう、それに味付けも申し分なかった。食べていて飽きが来ない。
 「編集長、一度、その方の作品を見ていただけませんでしょうか。私はどうしてもその方の作品を画集にしてまとめたいのです」
 思い詰めたような声で彼女が私に言った。
 「水野さんは、どのような形での出版をお望みですか?」
 私が訊ねると、彼女はしばらく沈黙した後、私の目を見つめて答えた。
 「出来れば企画出版で、と思い、原野警部にご相談しました」
 警部がどのように答えたか、ある程度想像がついた。彼女はその言葉を聞いて、喜び勇んでやって来たのだろう。だが、画集を企画出版出来るほどの財力は今のところないし、もし、仮に資金が用意出来たとしても出版は難しい。コストがかかりすぎるのと、利益がほとんど期待出来ないからだ。出版は慈善事業ではない。そのことを声を大にして言いたかった。
 「はっきり申し上げて企画出版は難しいですね。当社にその余裕がないし、爆発的に売れるとも思えませんから、出版したとしても回収に時間を要するでしょうし、その間に当社がダウンしないとも限りません」
 彼女は無言で私の話を聞いていた。申し訳ない気持ちで一杯だったが、同情で出版は出来ない。今回ばかりは、いくら原野警部の頼みとはいえ、金銭に関わる問題だ。極楽出版の前途に関わる問題でもあった。頑とした姿勢で拒絶した。
 「よくわかりました。それでは自費出版の方向で一度検討させていただきます。その時の条件、見積などご提出していただけますか」
 彼女は笑顔でそう言い、提案した。自費出版なら断る必要などなかった。私は、「わかりました」と答え、近日中にお届けしますと伝えた。
 警部は、自分の思っていた展開にならなかったせいもあり、不機嫌きわまりない表情で私を送り出した。原野警部と水野由佳に丁寧に頭を下げ、茶屋町を後にした。

 水野由佳の店は御堂筋を隔てて道頓堀の西側、アメリカ村に近い場所にあった。
 「小料理おぼろ屋」と書かれた看板を確かめて、暖簾をくぐり中に入った。カウンターだけの小さな店だった。開店してすぐの時間帯とあって、客は誰もいなかった。カウンターの中で料理人が下準備に忙しく立ち働いていて、私が店に入ったことに気付かなかった。
 「こんにちは」
 私の声に気付いた料理人が慌てて顔を上げ、「いらっしゃいませ」と大きな声で言った。
 「女将さんいらっしゃいますか?」
 尋ねると、料理人は愛想笑いを浮かべ、「もうすぐ帰って来ますのでどうぞ座ってお待ちください」とカウンターの席を指差した。
 こじんまりとした清潔な店だった。メニュー表を見ると、バラエティに富んだ一品料理の数々が記されていた。煮物が多く、野菜系統のものが目立って多かった。それがこの店の特徴なのだろうと思い、料理人に尋ねてみた。
 「この店の人気メニューはなんですか」と。
 料理人は間髪を入れず「野菜炊きですね」と答え、旬の野菜をふんだんに盛り込んだ煮炊きものだと言った。メニュー表を見ると肉類が少なく、その代わり魚料理が多かった。
 「あら、いらっしゃいませ」
 振り返ると、入り口に水野由佳が立っていた。
 「ごめんなさいね。買い物に手間取って」
 と言いながら彼女は私の隣に腰をかけ、待たせたことを詫びた。
 「いい場所にありますね」
 私は彼女にこの店の立地を誉めた。御堂筋から入った、わりとわかりやすい場所に店があったからだ。客商売は立地が物を言う。その点、由佳の店は立地が申し分なかった。
 「ありがとうございます。編集長、何か、お食べになりますか?」
 「そうですね。では、この店の人気メニューの野菜炊きをお願いします。それと焼酎の水割り。料金はお支払いしますのでどうかご心配なく」
 ご馳走になっては申し訳ないので、そう付け加えた。
 「お見積もり出来ました?」
 彼女の言葉を聞くまでもなく、すでに私はカバンの中から見積書を取り出していた。
 「本はサイズやページ数によって大きく違いますが、一般的な画集のスタイルを想定して金額をはじき出しました。オールカラーで用紙も特別なものを使いますのでどうしても高額になってしまいます」
 そう断って彼女に見積書を手渡した。彼女は、見積書の金額を眺め、少し逡巡した。無理もなかった。金額が大きすぎる。私は、彼女を慰めるようにして言った。
 「画集の場合はどうしてもコストが高くなります。ご無理はしない方がいいと思います。それだけの金額を取り戻そうと思ったら途方もないことです。赤字を覚悟にしたとしても金額が大きすぎます」
 彼女は一つ大きなため息をついて私を見た。
 「厳しいですね。何かいい方法がないかしら……」
 方法など何もなかった。あるとしたら、その画集を確実に買う客を予算分集めることだが、それにしても簡単に出来ることではない。画壇で活躍している画家であれば固定客もおり、ある程度の予測は立つが、ほとんど無名の画家ではそれも期待できない。
 「編集長、一度、その方の絵を見ていただけます?」
 彼女が思い付いたように言ったので、私も軽く「いいですよ」と答えた。
 「この間、お話したように、いただいた絵があるのでそれを一度ご覧になってください」
 そう言いながら彼女は奥の部屋へと向かった。
 その間に野菜炊きが私の目の前に置かれた。小さな鍋の中に、煮た旬の野菜が豊富に盛られていた。私は元来野菜が好きではない。だが、糖尿病を発症していた私は、野菜を食べる必要があった。そのため最近は出来るだけ努力をして野菜を口にしている。
 恐る恐る一口食べて驚いた。野菜の感じがしないのだ。思わず料理人に尋ねた。
 「これ、本当に野菜ですか?」と。
 料理人は笑って応えた。
 「うちに来るお客さんは持病を抱えた人が結構多いんです。それなのにほとんどの人が野菜は嫌いだとおっしゃる。そこで、そういった野菜嫌いの方が喜んで食べられる味付けを工夫しようと思って野菜炊きを考案しました。野菜の食感を残したまま、独特の味付けをしてみたらそんな味わいになりました。味付けについては企業秘密ですが、結構、皆さんに喜んでいただいています」
 本当に美味しかった。大嫌いな野菜を私は一気に食し、焼酎の水割りを二杯お代わりした。
 奥から大事そうに絵を抱えた水野由佳が現れた時、私はすべての食事を終えていた。
 「おまたせしました。編集長、この絵なんですよ」
 彼女が問題の絵を私の前に披露した。

 原野警部からお礼の電話が掛かってきた時、私は昼食の後のまどろみの中にいた。
 「編集長、ありがとう。感謝するよ」
 警部の声が遠くで聞こえたような気がした。曖昧な返事をしてすぐに電話を切ったような気がする。それほど私は茫漠とした空気の中にいた。
 私が画集の出版を決めたのは決して偶然ではなかった。絵を見るまでそんなつもりは毛頭無く、私にしては冷静に対処していたほうだったと思う。また、水野由佳も、単純きわまりない私をうまく丸め込んだというわけでもなかった。
 「出版しましょう!」
 彼女にそう言った時、彼女は驚きの目で私を見て、その次に泣いた。私がそんな言葉を間違っても吐くはずがない。彼女はそう信じていたに違いない。私にしてもそうだ。どこをどう間違ってもそんな言葉を吐くはずがなかった。だが、どういうわけか私は決心した。決心してすぐに実行した。その手早さというのは、これまでにないものだった。
 画家の名前は、児玉新太郎と言い、五十代のごく平凡な男だった。芸術家の雰囲気もないし、画家としての風貌もその表情からは伺うことが出来なかった。どこにでもいる、生活に疲れた平均的な中年サラリーマン、そういった印象が強い男だった。だが、彼の作品はそうではなかった。言葉を超越した美空間がキャンバス一杯に展開され、見るものの心を熱く激しく打つ、そんな作品だった。
 水野由佳に初めて絵を見せられた時、私は思わず声を上げそうになり、思いとどまった。驚きのためではなかった。その絵から迫ってくる情感の渦に一瞬のうちに飲み込まれてしまったのだ。
 有名無名を問わずこれまでたくさんの絵画に接して来て、ある程度の評価が出来るというぐらいの自負はあった。だが、児玉の絵はそういった範疇を大きく超越したものだった。
 今でも不思議に思うのだが、あれは一体何だったのだろう。
 児玉のアトリエで私はさらなるショックを受け、そのショックがさめやらないうちに出版を取り決めた。

 絵は半年後に出版され、意外なほど売れた。残念ながら利益を生み出すところまではいかなかったが、損はしなかった。無名の画家の画集が売れるなど滅多にないことだったから損をしなかっただけでもよしとしなければならなかった。
 出版を決めたあの時、熱病のように私を突き動かしたのは一体何だったのだろうか。本が完成するまでそれは続き、出版して初めて熱病から解放され、一瞬、現実に立ち戻ってたちまち青ざめた。画集が売れなければ出版社を畳まなければならない。そういったところまで追い込まれていたからだ。
 画家の児玉は、本の完成と同時に呆気なく病死した。元々、体が弱く、ガンの転移があちこちに始まっていたという。水野由佳は、児玉が息を引き取る瞬間に立ち会ったようで、児玉が本の完成を喜んでいたと私に伝えた。

 出版は時々怪異な現象を生む。企業家であり、経営のために堅実な計算をしなければならない立場なのに、狂ったように本の制作に取り組んでしまう、そんな時がある。食うにも困るような生活をしているのに、狂ったエネルギーはそれを凌駕して制作に走らせるのだ。
 出版バカと言われそうだが、本当はそういうエネルギーがなければただの出版屋になってしまうことも確かで、出版をギャンブルとまでは思わないが、感動を本にすることは実に心地よい。売れるか売れないか、そういった魂胆で本を制作していると、時折自分が惨めに見えてくる。たまにはこうした例があってもいい。それを実感させてくれた作品だった。

 出版して一年後、水野由佳が小料理屋を畳み、行方不明になったと原野警部から聞いた。行方をくらます理由がわからないのだと警部はぼやき、由佳の行方を追った。

 画集はその後も売れ続け、零細出版社にもいくらかの潤いをもたらした。私は、出版一周年にあたる日、児玉新太郎の自宅を訪ねることにした。印税の支払いとお礼を兼ねてのものだった。
 児玉新太郎の自宅は、高槻市から亀岡へ通じる奥まった山間の途中にあった。
 自宅を訪ねたがインターフォンを押しても一向に返事がなかった。あきらめて帰ろうとした時、不意に背後から呼び止められた。
 振り返ると水野由佳がいた。
 「水野さん……! どうしたんですか? 原野警部が探していましたよ」
 彼女は黙って立っていた。そして一瞬のうちに消えた。
 私は幻を見たのだろうか。水野由佳の立っていた位置まで走り寄った。やはり誰もいなかった。気になってそのことを原野警部に報告した。
 「実は……」
 警部は、私の電話を受けると、意外な言葉を口にした。
 「編集長、由佳が死体で見つかったんだよ。東尋坊の岸壁で発見された……」
 涙声の警部にそれ以上のことは聞けなかった。
 水野由佳は自殺だった。残された遺書に、私への感謝と原野警部への感謝の言葉が記されていたと後になって聞いた。遺書には次のような内容が記されていた。
 「画集が出版されて、たくさんの方に児玉の絵が知られてとても幸せです。井森編集長には申し訳なかったのですが、私、編集長に嘘をついていました。児玉と私は長い間付き合ってきました。店の客であることは間違いなかったのですが、それだけの関係ではなかったのです。ただ、私が彼の描く絵に惹かれていたことは間違いありません。何とか彼を世に出したい。そう思い続けていました。でも、なかなかチャンスがありませんでした。
 そんな時、原野警部から編集長の話を聞き、淡い期待を抱きました。企画出版が難しいことはよくわかっていましたが、もし何とかなるなら、そんなつもりで編集長に会いました。やはり、結果は同じでした。それも当然だと思いました。でも、もう一度チャンスをと思い、私の店に招待しました。絵を見た時の編集長の様子が私には意外でした。ビジネスを飛び越えた別人の目をしていたからです。
 もし、この絵が売れなくて失敗したら、その時は店を売って、私の財産すべてを編集長に預けるつもりでいました。でも、出来るなら出版人の気概でこの本を出してもらえたら、そう思っていましたので、今はとても満足しています。
 児玉の命が長くないことは知っていました。彼はずいぶん前に離婚して、一人で暮らしていました。私は時々、彼の家を訪ね、食事の世話をしたり、彼の身の回りの世話をしたりして尽くしました。その彼が亡くなって、私の張りつめた気持ちがスーッと抜けていきました。死ぬことがいいとか悪いではなく、一日も早く彼の元に行きたい。その思いから死を決心しました。ありがとうございました。私は今、とても幸せです」

 水野由佳の遺書を読み終えた私は、原野警部の肩を抱くようにしてミナミへ向かった。酒を呑まずにはいられない、二人ともそんな心境だった。〈了〉

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