妻への愛、息子への愛を筆に託して

高瀬甚太

 深酒をすると、意識が飛んでしまうことは今に始まったことではない。
壊れたガラス窓、破れた襖、水がこぼれた畳――、荒れ放題の部屋の中で、正体不明になった私が眠っている。目を覚ますと、腫れた頬をタオルで冷やす妻と壊れたガラスを拾い集める幼い息子の姿が見えた。
 酒乱である。一滴でも酒を呑むと、さらに酒が欲しくなり、制止の利かない酒の世界に溺れて行く。呑めば呑むほどわけがわからなくなる。そのうち胸の内に秘めていた、怒りのマグマがドンと推し上がって来て、我が身を破滅へと追い込んで行く。果てしない悲観の渦から逃れようと遂には暴れ出す。そんな繰り返しの中で、ある日、とうとう妻と息子が逃げた――。
 
 「新庄さん、これ、ここに置いといていいですか?」
 スーパーで働く斉藤陽一が一週間に一度、野菜や米の類を届けてくれる。
 「いくらだい?」
 「五千三百円です。酒は入っていませんからね」
 斉藤はいつもそうやって一言、断ってから請求書をみせる。
 金額を支払うと、斉藤は被っていた帽子を脱ぎ、ぺこりと頭を下げる。一人暮らしになってから、荒んだ私の生活を見かねた彼が食料品をずっと届けてくれている。
 「ああ、そうだ。この間、新庄さんに書いてもらった書画、ぼく、大切にしていますよ。部屋の壁に飾って毎日眺めています。今度、百貨店で個展があるんでしょ。楽しみだなあ。ぼく、必ず観に行きますから」
 斉藤はニキビ跡の残る顔に、明るい笑顔を残して帰って行く。
 いつの間にか三年――、斉藤が食料品を届けてくれるようになってからの日々だ。
 それはまた、妻と子が私の元を去ってからの月日にもなる。

 ――あの日の朝、目を覚まし、「泰子、泰子」といつものように妻の名を呼んだ。しかし、どれだけ呼んでも返事が返って来なかった。おかしいなと思い、布団から身を起こし、台所に立つがそこにも妻はいなかった。
 子供のいないことにも気づき、慌てて家の中を探し回っているうちにテーブルの上に白い封筒があることに気が付いた。
 「紀夫さんへ」と封書の上に書かれた丁寧な文字は、泰子のものだった。
 『これ以上、耐えられません。毅と共に家を出ます。今までありがとうございました』
 急いで書いたのだろう、筆跡が乱れていた。これ以上ない簡潔な文章が、逆に泰子の混乱ぶりを想起させた。
 キッチンの冷たい板の間で、私は膝を落とし、呆然自失した。手紙のことも、妻や子が家にいないことも現実のものとは思えず、呆然とする意識の中で、やがて、胸の動悸が激しくなり、喉の奥から湧きあがって来る甘酸っぱいものを床一面に吐き出した。昨夜の酒の残り香がかすかに漂い、胃が静かに痙攣して、それはなかなか止まらなかった。
 それでも酒をやめることはできなかった。妻と子供の名をうわごとのように叫びながら、私は日本酒の瓶を抱えて一杯、二杯と、据わった目を床にやって、ひたすら呑み続けた。
 呑んでいるうちに私はまた、いつものように精神を錯乱させた。朦朧とした意識の中で、込み上げてくる怒りを抑えようともせず、怒りにまかせて家の中のものを破壊し続け、そのまま深い眠りに陥った。
 見かねた隣人が救急車を呼んだのだろう、救急車が家の前に着き、近隣のざわめきを遠くに感じながら、その日のうちに私は病院へ運び込まれた。
 「しっかりしてください。大丈夫ですか?」
 女性の声を近くに感じて、目を覚ましたのが夜中の二時だった。妻がそばにいると勘違いした私は、思わず見回りに来た看護師に抱きつき、「泰子、泰子――」と妻の名を呼んで嗚咽し、しばらくその看護師を離そうとしなかった。
 朝日の到来と共に正気に戻った私は、腑抜けのようにベッドに転がり、ぼんやりと天井を見上げていた。朝の騒動しい空気の中で、一人だけ取り残されたように白いベッドに横たわっていると、無性に寂しさが募ってきて、足の底から冷たいものが静かに這いあがって来る。闇の底から湧きあがって来る、例えようもない孤独の影が体にまとわりついて離れない、その影は私に取りついたまま、しばらく私の傍を離れようとはしなかった。
一日たりとて酒を呑まない日のなかった私が、当然のことながら病院では一滴も酒を呑むことができない。酒を呑めない苦しみが私を襲う。イライラが止まらなくなり、それが次第に不安に転じ、底のない絶望感に襲われるようになる。手が震え、足が震え、夜中になって脳までもが震えだした。やたらと汗をかき、食べたものを嘔吐し、生きているのが辛くなってくる――、そんな症状が長く続いた。
 苦しみから逃れたとはいっても依存症から完全に立ち直ったわけではない。
 意識の中では、アルコール依存を克服したという達成感があるのだが、酒の匂いを嗅ぎ、酒のラベルを見ると心が異常にざわつき、喉の奥がアルコールを要求して熱くなる。依存症での入院治療に約三か月を要した。
 退院してもしばらく通院が続いた。断酒治療が功を奏し、ようやく私はアルコール依存症から立ち直りつつあった。

 泰子と結婚をしたのは、私が二十代の初めで彼女が十九歳、二人共まだ学生だった。当然のように両親を含め、周囲は猛反対したが、それを押し切って強引に結婚をした。
 稀代の書画家で、父である新庄三蹟の名跡を継ぐことに抵抗のあった私は、社会科の教師を専攻し、大学卒業と同時に私立の中学校に赴任した。
すべて事後承諾であった。父にそのことを報告すると、意外にも父は笑顔で私を迎えて、
 「まあ、頑張ってみるんだな」
 と私の前に、日本酒の入ったコップを突き出した。
 この頃の私は、自分を取り巻くすべてのものに反抗し、自分ならではの人生を歩むことに固執していた。父が自分の跡を継いでほしいと願っていることを承知しておきながら、教師の世界に逃避し、父の思い、家族の願いを無視して生きていた。
 この頃、父は肝臓に重大な病気を抱え苦しんでいた。そのことに私はまるで気付いていなかった。私に心配をかけまいとしたのだろう、母もそのことを私に話さなかった。
 「お父さん、顔色が悪かったわね」
 と泰子が家から帰る道すがら、私の耳元で囁いた時も、
 「酒の呑み過ぎ、遊び過ぎだよ」
 と私は意に介さず答えていた。父の酒豪ぶり、遊び好きは子供の頃からよく知っていて、酒の上での武勇伝をこの眼で目撃したことも一度や二度ではなかった。
 大学を卒業して、私立の中学校の教師として働いていた私は、当時、正義感溢れる熱血教師だったと思う。そんな私が、二学期が始まって間もない時期、教頭と激しく意見衝突をした。
 一学期の途中から不登校になっている生徒の家を頻繁に訪問していることを咎められ、言い争いになってしまったのだ。
 「不登校になるには原因があります。家庭に問題がなければ学校に問題があるのです。それを正して生徒を不登校から救ってあげるのが教師としての役目じゃないですか?」
 私の意見を無視するように教頭が言った。
 「学校に問題があるというが、そんなことを逐一掘り下げてみろ、学校の恥を世間に公表するようなものじゃないか。不登校の多くは生徒の側に問題がある。いじめられる者には相応の理由があるし、退学したい者はすればいいんだ。毎年、学年に一人や二人はそんな生徒がいる。もっと割り切って生徒と付き合いたまえ」
 教頭の言葉に納得のいかなかった私は、激しい抗議を繰り返した揚句、教頭のさらなる怒りを買い、学校をクビになってしまった。
 その時、教師の道に頓挫した私の迷いを一掃してくれたのが泰子だった。
 「あなたはあなたの才能に気付くべきよ。あなたの才能はお父さんを超えるものがあるわ。ずっと前から私はそう信じてきた」
 泰子の言葉に後押しされるように、書画の世界への復帰を望むようになった私だったが、両親の願いを断って教師の道を選んだ経緯がある。前言を撤回して、父の元へ戻ることは、そう簡単なことではなかった。
 ちょうどそんな折、父が入院した。その報せを母から受けて、泰子と共に父の入院する病院に向かった。
 母は、ベッドで眠る父を横目に、私を廊下へ誘うと、
 「肝臓ガンのかなり末期のもので、余命三カ月と診断されたわ……」
 と、気落ちした様子で、深刻な父の病状を話した。父は、ベッドで昏々と眠り続けている。その痩せた体、土気色の顔には、稀代の怪人、新庄三蹟の面影はなかった。
 泰子と共に父に付き添うことにした。母は、「仕事はどうするの?」と心配したが、教師をクビになったとも言えず、
 「休暇をもらったから大丈夫」
 と笑ってごまかした。
 一進一退を繰り返しながら、父の病気は確実に進行していた。それでも私の顔を見ると、
 「仕事はどうした?」
 と心配する余裕をみせた。
 父が入院したことを知らないクライアントから、書の依頼が次々と届く。母は、どうしていいかわからず、筆の持てない父に相談をする。
根っからの職人である父は、ベッドの上で、ゆっくりと体を起こすと、紙と筆を持って来いと母に命じる。
 しかし、震える父の両腕は筆を握る力さえ残っていなかった。やおら筆を口に咥えた父は、そのままの姿勢で筆に墨を付け、文字を書こうとする。見かねた私が、父から筆と墨を取り上げ、
 「父さんの代わりにぼくが書く。書いたものを見て、直しがあれば指示してくれればいい」
 と、告げると、父は力なく首を振り、
 「頼む」
 と言った。
 物心ついた時から、父に教えられてきた書画だ。小学生の頃には、数人いた父の弟子の何人かをすでに追い越していた。中学生の時には、全国書画コンクールで優勝し、高校時代には、誰もが認める二代目として評価されていた。
 大学に入って、世の中にはさまざまな道があることを知り、書画の世界から遠のき、やがて、教師の道を目指すようになった。
 しばらく離れていたとはいえ、腕が衰えたとは思わない。筆を持つと、不思議に指が感触を覚えている。一枚の書を一気に書き上げた。
 ベッドの上の父に完成した作品を見せると、少し不満げな表情こそ浮かべたが、小さく頭を振って、よしと言った。
 書の道のオーソリティである父の元には、様々な書画の依頼がひっきりなしに届く。それを病に倒れた父に代わって、私は一つずつ着実に仕上げて行った。
 クライアントの誰もが新庄三蹟の書いたものと信じて疑わなかった。母も私を絶賛した。そのことが私には大きな自信になった。
 父がベッドに伏して十日目、私は正直に教師をクビになったことを話し、書画の世界に戻りたいと思っていると告げた。
 父は目に涙を溜めて、私に言った。
 「わかった。今日からお前は二代目新庄三蹟だ」

 父が亡くなったのは、それから二週間後のことだ。ろうそくの炎が燃え尽きるように、一瞬、顔を輝かせ、空に何かを描こうとして、そのままの姿勢で息を引き取った。
 新庄三蹟の死と二代目新庄三蹟の披露が重なった通夜、葬儀になった。さまざまな名士が顔を揃え、参列した様々な業界の人たちは、一様に新庄三蹟の名跡を称え、その死を惜しむと共に、二代目新庄三蹟を襲名した私を激励した。
 父の死を悲観している暇はなかった。挨拶回りに奔走し、祝儀仕事に忙殺される日々を送る中で、次第に私は二代目新庄三蹟としての自覚を強めて行く。
 それと共に交際の幅も大きく広がり、酒宴に接する機会が増えた。生前の父を称賛する声を私への称賛と勘違いをし、自惚れと慢心に酔いしれながら各界の著名人と交流を重ね、書画界の中で徐々に地位を確立して行った。
 「初代の書には、人を驚かせる作風があった。残念ながら二代目にはそれがない。そつなく上手で、欠点こそ見られないが、小さくまとまっているのが残念だ」
 酒の席で、父の後援者であった、財界の重鎮、佐藤宗明からその言葉を投げかけられた時、私は思わず反発し、
 「いずれは父を超えてみせます」
 と豪語した。父の名跡を継いで三年、その重さがありとあらゆる形で私にのしかかって来ていた頃だ。私に対する批評も、賛美一辺倒から批判へと移り変わっていた。
 これが名跡を継いだプレッシャーなのか、と思い知らされたが、私には父を超える自信があった。さらなる経験を積んでいけば、必ず父は超えられる。私はまだ経験不足なだけだと、軽く考えていた。
 書体も作風も、私の書くものは初代に似通っていた。いや、むしろそっくりそのままと言った方が正しかった。二代目として、初代の技を受け継ぐのが当然と思っていたし、多くの人が初代そのままの書を望んでいると、その頃の私は理解していた。だから、父の模倣をするのに何の抵抗もなかった。
そんなある日、日本酒の醸造会社から、新酒の酒のラベルに品名を書くよう頼まれた。
 純米吟醸酒『豪山』という酒だった。純米吟醸酒は、醸造アルコールを添加せず、米や米こうじ、水のみを原料として製造する酒である。
 担当者が挨拶に訪れ、よほど愛着があるのだろう、ひとしきり『豪山』という酒について薀蓄を語った後、自分の持っているイメージを滔々と話して聞かせ、挙句の果てに「こんな風な書体で書いていただければ」と見本を私の前に差し出した。通常なら、見本通りに書くことなど、論外なことなので一蹴し、断ってしまうのだが、その時は、担当者と共に酒を呑んでいたこともあり、熱心な説明を受けた後であったから、やむを得ず引き受けてしまった。
 たあいもない仕事であると、簡単に考えていたところがあった。見本に、少しアレンジして書いた『豪山』の書を送ると、先方から、
 「大変申し訳ありませんが――」
 と言って連絡があり、「もう少しここをこうしていただいて」と細かな注文があった。さすがに憤慨したが、今さら断るわけにもいかず、仕方なく先方の希望通り、書き直して送り直した。
 しばらくして、『豪山』の広告が店頭に出るようになると、私の元へ抗議の電話がかかって来た。
 <あなたほどの人がいけませんよ。書体にも著作権があることをご存じなかったのですか?>
 何のことか、まるでわからないまま訊ね直すと、私の書いた文字が著作権侵害に当たると言う。
 <模倣した文字を商品として売り出したら当然、著作権侵害になりますよ。そのことぐらいあなたにもわかるでしょ>
 「私は模倣などした覚えは一切ありません」
 敢然と答えるが、相手は一切動じない。
 <しかし、実際にあなたは私の先生の書体を真似て書いている>
 男は、そう言いきると、
 <今からファックスを送るからそれを見て確かめればいい>
 と言って、『豪山』と書いた文字を送ってきた。料亭の看板のようであった。
 <どうです。それは私どもの先生が料亭の看板として書いた文字です。そっくりとは思いませんか>
 「確かに似ているが、料亭の看板など初めて見た。私には覚えがない」
断言すると、相手の男の声の調子が急に変わり、
 「まあ、法廷で争いましょう」
 と言って電話を切った。
 私は、依頼を受けた日本酒の醸造会社に電話をし、担当者を呼び出した。しかし、担当者は営業に出てしばらく帰らないと言う。帰ったら電話をくれるよう伝え、やきもきしながら電話を待った。
 担当者から電話がかかってきたのは二時間程度、時間が過ぎた頃だった。
「先ほど私のところに電話があって、私の書いた『豪山』が著作権侵害になると言われたのだが…」
 <ああ、あのラベルですね。おかげで好評です。本当にお世話になりました>
 「そういうことじゃなくて、私の文字が著作権侵害に問われたと言っているのだよ」
 <ああ、そのことですか。私、料亭でみた『豪山』の文字が気に入りましてね。最初、その文字を書いた先生に依頼したのですが断られまして。それで先生にお願いをして、同じ文字を書いてもらったわけです>
 「それがどのような事態になるか、わからなかったのかね」
 <まさか著作権侵害になるとは思ってもみませんでした>
 「なぜ、書体を真似て書いてくれと最初から言わなかったのだ?」
 「言えばきっと書いてくれなかったでしょ。だから言わずにいたのです。それに最初はあんなに上手にそっくりに書いてくれるなんて思わなかったものですから」
 悪びれた様子もなく語る担当者は、ことの重大さにまるで気が付いていなかった。私にも仕事を早く片付けようと思い、安易に書いてしまったことへの悔恨がある。後悔の念に駆られたがもう遅かった。
 一週間ほどして、私は著作権侵害で訴えられた。弁明の余地などなかった。裁判所で和解勧告を受け、先方に示談金を支払ってこの件は終わったが、後遺症は確実に残った。
 私の書画界での地位は大きく失墜し、クライアントからの仕事が激減し、父の名声は一気に地に落ちた。
 奈落の底に沈むのと、愛息の誕生が時を同じくした。意気消沈した私には、息子の誕生を喜ぶ気力が残っていなかった。誕生のその日も、私は一人、居酒屋で閉店まで酒を呑み、足をもつれさせ、家に辿り着くのがやっとの状態で帰宅した。
 しかし、翌日、病院で生まれたばかりの息子の顔を見ると、さすがの私もやる気を起こさざるを得なかった。泰子と息子を食わせていかなければならない。父親として、一家の主としての自覚までは失っていなかった。

一度、地に落ちた名声は、一朝一夕に取り戻せるものではない。後援者の多 くが離れて行き、クライアントの数も大きく減った。父の模倣によって成り立っていた私の書画は、大幅な見直しを余儀なくされ、同時に、これまで持っていた自惚れや慢心は雲散霧消した。
 その時になって、ようやく私は、自分の書は、父の模倣だけに頼った書であることに気付いた。私にとっての書とは――。しかし、考えても考えても、答えが出なかった。
 酒に浸り、酒を呑まないと我慢ができない。そうなってしまったのはその頃からだ。
 わずかな仕事で食いつなぐ日々、暮らしは決して豊かではなかったが、それでも泰子は愚痴一つこぼさず、パートに出て私の生活を支えながら、生まれて間もない子供、毅に精一杯の愛情を注いでいた。
 真剣に書に取り組めば取り組むほど、ますます行き詰って行く。書の世界は、私が考えていたよりもさらに奥深く、難解なものだった。混乱する精神の中で、私は捌け口のない怒りに襲われた。怒りを鎮めようと酒を口にする。だが、酒を呑むことによって内蔵する怒りはさらに増幅した。泰子に怒りの矛先を向けるようになったのは、その時からだ――。

 病院を退院した私がまずしたことは、妻と子供を探すことだった。泰子の実家を訪ねたが、実家の両親は泰子の行方を明かすことを頑なに拒んだ。一生、酒は呑まない、暴力を振るったりしないと、心から訴えたが、信じてはくれなかった。
 「酒を呑んで暴れた朝、あんたはいつも娘に土下座をして、酒はもうやめる。暴力は振るわない、そう約束したそうじゃないか。それなのに、ひとたび酒を口にすると、また、あんたは同じことを繰り返し、泰子を泣かせ、毅を泣かせた。そんなあんたの言うことをどう信じろと言うのだ。あんたに泰子への愛情が少しでもあるのだったら、この離婚届に署名捺印して欲しい。理由は言わなくてもわかっているだろう」
 泰子の父は銀行に勤める厳格な人だ。結婚をする際も強硬に反対し、結婚後もしばらく私と会おうとはしなかった。
 「離婚は、泰子の意志ですか?」
 「……」
 「泰子と会わせてください。泰子の気持ちを確認しなければ私は離婚に同意できません」
 泰子の父は、苦虫を噛み潰したような顔を隠そうともせず、
 「もういい。今日は気分が悪い。帰ってくれ」
 と投げ捨てるように言い、私は追い払われるようにして泰子の実家を出た。
 実家の両親が泰子と毅の行方を知っていることは確かだった。私はあきらめきれない気持ちで泰子の実家を振り返った。何代も続いているような木造二階建ての古風な家である。もしかしたら、この家のどこかに泰子がいるのでは、そんな気がしてしばらく見つめた。
 しかし、耳を澄ましても泰子の声は聞こえない。毅の声も聴こえては来ない。聞こえるのは初冬の風の音だけである。寂しさを押し殺して帰途についた。
 泰子の実家と私の住まいとの距離は、電車を乗り継いで二時間半の距離があった。泰子の父の頑なな態度から見て、度々、訪問することは返って機嫌をそこねる恐れがあった。
 泰子に私の気持ちを伝えるには、書に没頭するしか術がなかった。書を通じて、泰子に今の自分の気持ち、後悔の念と、変わらぬ愛の気持ちを伝えなければと考えた。
 そのためにも、自分の作風を生み出す必要があった。父の亡霊に捉われない、模倣に頼らない、まったく新しい自分の書を創造するということは、模倣の世界に凝り固まって、それを良し、としてきた私にとって容易なことではなかった。だが、逆に、父の亡霊、模倣から逃れることが、私に自由な発想をもたらし、ものを見る目を柔軟にさせることにもつながった。
 「あなたはあなたの才能に気付くべきよ。あなたの才能はお父さんを超えるものがあるわ。ずっと前から私はそう信じてきた」
 以前、泰子が私に言った言葉を思い出した。才能――、それは、創造する力。無から有を生み出す力。泰子の言葉は、深酒によって萎えた私の精神を奮い立たせるに充分な威力を持っていた。
 真っ白な紙面に、私は、渾身の力を込めて、『愛』という文字を書いた。『愛』、泰子を思い、毅を思う私にとって、『愛』は重要なキーワードだった。泰子への愛、毅への愛を筆に託し、思いを込めて筆を走らせた。
 完成したその作品を私は、財界の重鎮、佐藤宗明に見せた。多くの後援者が去った後も佐藤だけは変わらず私の後援者でいてくれた。そのことへの感謝もあって、新しい世界を切り開こうとする私の書を真っ先に見てもらいたかった。
 佐藤は椅子に腰を下ろし、無言のまま私の書と対面すると、
 「胸に迫る書だ」
 と洩らし、大きく息を吐いた。

 佐藤の後援を受けて、三カ月後、百貨店の画廊で、私の個展が大々的に開催されることになった。八十点に及ぶ作品を書き上げた私は、個展の名称を『慟哭』と題し、一週間に亘って展示することにした。
 客の入りが心配されたが、そのことよりも私の希望は、泰子と毅がこの会場へ姿を見せてくれることにあった。
 個展開催日、私は会場で泰子と毅を待った。個展の案内書は泰子の実家に送り届けている。必ず来てくれるはずだと、信じて待ち続けた。
 「もっと宣伝しないとダメですね。入りが悪い」
 画廊の運営責任者がぼやく。確かに初日の入りは悪かった。初日に訪れた人は三十数名、ただ、八〇点の作品のうち、一〇点が売れた。見知った人が買ったわけではない。そのことが唯一、今後に希望を持たせた。
 二日目、驚きの現象が生じた。午後になってドッと人が押し掛けてきて、会場が満員になったのだ。それは閉館までずっと続いた。
 「宣伝もしていないのに、どうして?」
 と、運営責任者のボヤキが嬉しい悲鳴に変わった。
 だが、初日も二日目も泰子と毅は現れなかった。
 三日目、この日は朝から行列が続いた。会場に入りきれない人が列をなして並び、入場制限をしなければならなくなるほど混雑した。
 「どうやら口コミ効果のようですね」
 運営責任者の明るい声を聴きながら、私はこの日も現れなかった泰子と毅を思い、心を暗くしていた。
 とうとう個展開催一週間目、最後の日がやって来た。会場には開館を待ちわびる大勢の人が列をなし、その列は百貨店を二回りするほどの人出になっている。
 なぜ、これほど人が集まるのか、新聞やテレビが、この現象の謎解きをしようと躍起になったが、人の思いを解明する作業ほどくだらないものはない。観た人が私の絵に何かを感じてくれた。それが多くの人に足を運ばせた。ただ、それだけのことだ。
 すでに八〇点の書はすべて予約完売していた。運営責任者は顔をほころばせ、成功を喜んだ。だが、私の思いは複雑だった。晴れない空を眺め、ひたすら泰子と毅を待ち続けた。
 夕方になり、小雨が降って来た。閉館まで後三時間しかなかった。画廊は、さらなる人で埋め尽くされ、足の踏み場もないほど混雑している。
 「盛況のようでよかったね。おめでとう」
 後援者の佐藤宗明が訪れ、私をねぎらった。佐藤は浮かぬ顔をしている私を見て、
 「どうかしたのか?」
 と聞いた。
 私は正直に、私の元を去った妻と子を待っているのだが、まだ来ていないと話し、妻と子がここへ来ない限り、私にとって今回の個展は成功とは言えない、と話した。
 佐藤は、泰子が毅を連れて家を出たことを知っている。いや、佐藤のみならず、そのことを知らないものは誰一人としていなかった。
 「これだけの騒ぎになっているのだ。奥さんが今回の個展を知らないはずはないだろう。きみの様子をどこかで見て、迷っているのではないか。本当にきみが変わったのか、それともそのままなのか――」
 「私は、病院を退院して以来、一滴も酒を口にしていません。泰子と毅のために断酒を誓いました」
 「口では何とでも言えるさ。奥さんはきっと不安なのだろう。きみの元に戻って再び、あのような生活を繰り返すのでは――、そう思って心配しているのかも知れない」
 「どうすればわかってもらえるでしょうか。今日が最終日です。もう時間がありません」
財界の重鎮としての風格を漂わせる佐藤は、うっすらと伸びた白い顎鬚を撫でながら、天を仰いでしばらく考えた。やがて何かを思い付いたのだろう、ニコリと笑って、私の肩をポンと叩いた。
 「閉館の三〇分前、異例のことだが、この会場で感謝の意を込めてお礼の挨拶をしなさい。私から百貨店の責任者に伝えておく。きみはそこで、奥さんと息子に気持ちを伝えればいい」
 奥さんはきっときみを見ている――。佐藤が言った言葉が脳裏を過った。泰子は私に気付かれないようにして、ずっと、この会場に来ていたのではないか、今日もどこかで――、ふと、そんなことを思った。
 「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 と、佐藤に答えた私は、大きく深呼吸をして周囲を見渡した。
 閉館四五分前、会場の中心に、急ごしらえのステージが用意された。マイクが置かれ、画廊のみならず、百貨店全体に声が届くよう、スピーカーが設置された。
 三〇分少し前、運営責任者に促されて私はステージに立った。会場は、最終日の今日も超満員である。閉館が近いというのに会場につながる通路は未だに行列をなしている。
 「皆様、ご来場ありがとうございます。二代目新庄三蹟です。このようにたくさんの方々に来ていただいたこと、心より感謝しています」
 拍手が起こった。万雷の拍手である。拍手が鳴りやむのを待って、私は再び話し始めた。
 「私の父、新庄三蹟は、偉大な書画家として一時代を築いた作家です。私には到底、超えることのできない崇高な壁のように思われ、一時期、父の名跡を継ぐことをあきらめた時期があります。父の死によって再び、書画の世界へ舞い戻った私は、父を超えるよりも父の模倣をすることで書画の世界を生きて行こうと考えました。その方が楽なように思われましたし、父も世間もそれを望んでいると勝手に決めつけていました。
 しかし、何も考えず、父の模倣をし続けることは案外、楽なことではありませんでした。自分の中で日々盛り上がって来る、さらなる高みを目指したいと思う気持ちと、このまま気楽に生きる方がいいという気持ち、二つの思いの狭間で葛藤が始まり、その葛藤から逃避するために私は徐々に酒の世界へ埋没して行きました。
 父の模倣に頼り切った書に対する取り組み方が、心ならずも他人の作品を模倣し、著作権を侵害するという事件を生んでしまい、盗作作家の汚名を着せられたまま、書画の世界から消えてしまったのはその後、しばらくしてから後のことです。
 閉塞感と絶望、負の世界から逃れるために酒に溺れ、妻に暴力を振るって家庭を壊すという愚かな行為を繰り返し、人間としての存在意義を問われるほどの酒乱に陥った私を誰が愛せましょう。病院で治療を受ける期間、私は、アルコール中毒と戦うと共に、書画に対する自分の意識と向き合うことになりました。酒に溺れるに至る、あるいは酒乱に至る過程には、必ず何か、重大な要素が潜んでいます。私にとってはそれが、書画への取り組み方、その姿勢にあったと思います。偉大な父の亡霊から脱し、自由な発想で作品に取り組む、言うは易し、行うは難しで、一朝一夕にはいきません。病院のベッドの上で、私はひたすら悩み考えました。すると、また、酒が欲しくなる――。欲求を堪えるのは楽なことではありません。それもまた、闘いでした。
 天井を見上げて考えるだけでは、解決策は見つからない。そう思った私は、父の作品に捉われない自由な発想で、作品を書くことにしました。しかし、無目的に書くだけでは悪戯書きと変わりません。私は妻や子を思い、悔恨と愛しさを込めて、ひたすら書きつづけました。すると、それまであった、さまざまな邪心がきれいさっぱり消えてなくなり、いつしか私は、無心で書に取り組めるようになりました。
 心のままに白い紙面に筆を走らせる。そんな簡単なことができずに、これまで苦しみ、悩み、酒におぼれていたのかと思うと、自分の馬鹿さかげんにあきれるばかりです。
 今日、ここに展示した作品のすべてがその結果であり、妻と子への私の愛の表現に他なりません」
 話し終えた私は、深々と腰を折り、しばらく顔を上げず、そのままの姿勢でいた。しばしの沈黙の後、一つ二つパラパラと拍手が起こり、やがてそれが会場を揺るがす大きな拍手の音になった時、私はようやく顔を上げ、会場全体を見渡すことができた。
 拍手の音を聞きながら、私は再び腰を折り、感謝の礼をした。その時、鳴り止まない拍手の中で、小さな、本当に小さな声が耳に届いた。
 「父ちゃん」
 顔を上げて、見渡すが大勢の人の拍手と声が邪魔をしてわからない。空耳だったのか、と視線を落とした時、再び、
 「父ちゃん」
 という声が、今度はしっかりと耳に届いた。
 忘れるはずがない。どれだけ年月が経とうと、どれだけ離れていようとも、我が子の声を忘れる親はいない。私は、声のした方向に向かって叫んだ。
 「毅!」
 そして、「泰子!」と――。
<了>

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