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和歌心日記 9 壬生忠見

恋すてふ
我が名はまだき
立ちにけり…


「ピアノ、好きなんですか?」
少し上気した顔で覗き込んでくる女性。
妖艶だ。
「え? あぁ、ええ」
「クラシックですか?」
「あ、ええ、まぁ、ジャズとかも…いや、でもクラシックかな…」
山田海斗は六本木にあるピアノバーで一人飲んでいた。

西麻布から六本木まで六本木通りを北上する途中にあるその店は、前々から気になってはいたが、入る勇気がなかった。その日は一軒目に気分が良く酔っ払い、まだ時間も浅かったため、思い切って入ってみたのだった。

エレベーターで8階まで上がる。
その途中でやっぱりやめておこうかと思ったが、開けた瞬間に店の店員と鉢合わせてしまい、覚悟を決めた。

店内はちょうどライブが終わったとこらのようだった。一足遅かった。しかし、このまま帰るわけにもいかず、そのまま席に座った。
「すいませんね、今、今夜のライブが終わっちゃったんですよ」
「そうですか…残念だな」
「すいませんね。次はもう少し早く来て下さい。何にします?」
「ハーパーをロックで」
「かしこまりました」
マスターがロックグラスを用意する。
グラスに大きな氷を入れて、上からウイスキーを注ぐ。
パシッと氷が割れる音がする。
良い音だ。

「どうぞ」
山田の手元にグラスが差し出される。
美しい琥珀色の液体が揺れる。

「お疲れ様でした」
先程までピアノを弾いていた女性がトイレから戻って来たようだった。
「今日もお疲れ様です。何飲まれます? サービスしますよ」
「え、やったぁ、嬉しい! じゃあ生ビール!」
「かしこまりました」
マスターが彼女にビールを注ぐ。

「お待たせしました」
彼女にビールが置かれる。
演奏後のビールはきっとうまいんだろうな。そう思って思わず彼女を見ると、彼女もこちらを向いてなんとなく目があってしまった。どこかで会ったことがあるような…気のせいか。

「乾杯」
彼女に言われて山田もグラスを上げた。

ごくごくと彼女は生ビールを飲む。うまそうだ。
山田も琥珀色のウイスキーを舐める。うまい。やはりこの独特スモーキーな香りと苦味がたまらない。

「ピアノ、好きなんですか?」
「え? あぁ、ええ」
「クラシックですか?」
「あ、ええ、まぁ、ジャズとかも…いや、でもクラシックかな…」
「そっか。今日は惜しかったですね。ちょうど終わっちゃいました」
「はい、残念です。聴きたかった」
「聴いてもらいたかったわ」
少し上気した顔で見つめられるとドキドキしてしまう。カウンターに置いてあったライブスケジュールを見ると真野香とあった。やはり知らない名前だ。

「一曲だけ、もし良かったら…お店が大丈夫ならですが…」
「あ、いいですよ、香さんが良ければ」
「え、ああ、一曲ならいいですよ」
「いいんですか? やった!」
「曲はお任せでいきますよ」
「勿論です」
彼女はもう一口ビールをごくごくっと飲んでピアノに向かった。

ピアノに座ると凛とした目つきに変わる。
やはり、プロは違うな、と山田は感じた。

高音からリズミカルに始まる曲。ジャズだ。
「あ、これは…」
思わず声が漏れた。山田の好きなMy Favorite Thingsだった。
そうだ京都へ行こうのCMで有名になったが、もとはサウンドオブミュージックという映画の音楽だ。そのジャズアレンジ。

最初はゆっくりだかリズミカルに、静かに始まる。
左手の低音が入ってくると徐々にテンポが速くなる。
一回目の区切りが終わると、一旦アレンジが入って小気味良い展開が始まる。高音から低音まで入り乱れた音が飛ぶ。いつの間にか二回目のサビに入る。
そこからまた軽やかに音が跳ね、縦横無尽に駆け巡る。まるで映画のように主役の家政婦が子供たちと共にスイスの草原を駆け回るようだ。
やがて、曲は熱を帯び、最後の大団円へ向かう。左手の和音と右手の高い音階を駆け上がる旋律が混ぜ合わさり、一気に頂点まで向かう。

た、たまらない音だ…。

一気にファンになってしまう。
山田は拍手も忘れて聴き入っていた。
マスターが拍手をしてから、しばらくしてやっと拍手ができた。
「もう、せっかく弾いたのに、拍手なしですか?」
すこし膨れた顔がとても可愛らしい。
「いや、その、聴き惚れちゃいまして…言葉がでません…とっても良かった。とても好きな曲なんです」
「あら、嬉しい」
「こちらこそ。もう一杯どうです? お礼に奢りますよ」
山田は彼女に何かお礼がしたくてお酒を促す。

「何飲んでるんですか?」
「ハーパーのロックです」
「じゃあ私もそれをください」
「かしこまりました」
やはりピアノは生に限る。こんなそばでプロの演奏が聴けるなんて、もっと早く入っておけば良かった。

「どうぞ」
マスターが彼女にハーパーを出す。
「じゃあ、いただきますね」
「どうぞ」
彼女はハーパーのロックをクイッと一飲みする。
「良い飲みっぷりですね」
「やだ、やめて下さい」
「お酒お好きですか?」
「嫌いじゃないですね」
「じゃ相当好きだな」
「やめて下さいよ。うふふ」
くったくのない感じがとても好感が持てた。

「普段は何を聴くんですか?」
「実はジャズでなくて、クラシックの方が聴くんです」
「へー。ジャズが好きなのかと思った」
「嫌いじゃないんですけどね、気がついたらクラシックが好きで。あとはピアノ協奏曲とかも好きです」
「もしかして、ピアノやってたんですか?」
「はい、子供の頃」
「やっぱりね」
「わかります?」
「ピアノが好きな人ってだいたいやっていた人が多いので」
「ですよね。僕は子供の頃は嫌いだったな」
「あら、なんで?」
「先生は怖いし、女の子のようで恥ずかしかったんです。時代的に」
「なるほどね。でも今は好きなんだ」
「ええ」
「今でも弾けるんですか?」
「え、ま、まぁちょっとは。プロの前で言うのは気が引けますけどね」

「お兄さん、弾かれます?」
マスターが合いの手を入れる。
「えー、弾いて弾いて!」
「いや、無理無理。プロの前でなんて」
「大丈夫、大丈夫」
「私も一曲弾いたんだから。私にサービスでやらせておいて、やらないつもりですか?」
彼女は挑戦的な目つきで山田を見つめる。のけぞる山田。逃げきれない。

「はぁ」
山田はため息をついて、渋々ピアノの前に座った。人前で弾くのは何年…いや、何十年ぶりだろう。暗譜している曲はあったか…。ああ一曲だけあったか。

***

「ほら、弾いてよ。男の子でピアノ弾けるなんて珍しいじゃん」
「やだよ、恥ずかしい」
「カッコイイって逆に」
「逆にって」
音楽の授業だった。過去の作曲家を学ぶ授業。先生がこれは誰?と言いながらあの変な髪型の作曲家の顔写真をだしてクイズをする。他愛のない授業。僕は黙っていた。

「はい、これは?」
先生は僕に聞いてくる。僕は黙っている。
隣の里香が右肘で僕を突いてくる。
僕はそれを気づかない振りをする。
「弾けるじゃん海斗。ショパン、去年の発表会弾いたじゃん」
「馬鹿、やめろよ」

「先生、海斗が知ってるって。しかも弾けるらしい」
後ろで会話を盗み聞きしていた男子が話す。
それを聞いて皆んながざわつく。

「絶対無理」
と言ったものの、僕は恥ずかしくて顔が真っ赤になる。

「弾けよ海斗!」
「弾いて弾いて!海斗くん」
「弾けよ!海斗。勿体ぶらずに」
「弾ーけ、弾ーけ、弾ーけ!」
クラス中にコールがかかる。
地獄だ。

先生が近づいてきて海斗の肩を持つ。
「弾いちゃいなよ。先生も聴きたいな海斗くんのピアノ」
先生の顔がもの凄い近くにある。とても良い匂いがする。目がくらくらする。
海斗は強く目を瞑った。
左手が暖かくなった。里香が手を握ってくる。
無言の圧力だ。

おい、やめろよ。誰かがみたらどうするんだ。
僕は手を振り払う。
そして、仕方なくピアノに進む。
「ひゅー!」
誰かが茶化す。

「でも、ピアノ弾けるなんて女みたいだな」
ほらきた。必ずそう言う奴がいる。僕は本当にそう言われるのが本当に嫌だった。

先生が頭に手をのせる。
「気にしない気にしない。弾いて見せて。自信持って」
僕の心はまた緊張を高める。僕は先生が好きだった。もうここまで来たら仕方ない。
弾くしかなかった。

ショパン、バラード一番。
去年のピアノの発表会で弾いた大好きな曲。
物哀しい、それでいて情熱的な旋律。胸に迫り来る曲。そして、母が好きだった曲。

僕は目を瞑り、野次が消えるのを待つ。
暫くすると教室が静まり返る。雑魚は沈黙に耐えられないのだ。それは子供心に悟っていた。
大きく深呼吸を一つして、鍵盤に手を置く。
最初のドを力強く鳴らした。

***


そうだ、やはりこの音だ。この暗く、悲しみの結末を予感させる音と上昇していく展開部に一気に吸い込まれていく。もう周りが気にならなくなる。

この一定のリズム。黒鍵の音がそこはかとない底流にある暗さに拍車をかける。
途中から一気に畳み掛けるような美しい右手の音階。そしてまた、ゆっくりとした哀しみに溢れた旋律に戻る。
それはどんどん速度を増し、彼の不安、彼と彼女の不安を表すように低音と高音が繰り返しやってくる。
そして一時の安らぎ。
まるで嵐の雲間に入ったような安らかな音。

自分はもうこの曲に引きずり込まれてる。
指は勝手に周りだし、何故だかあの頃を思い出す。もう一つの人生。勿論そんなものあるわけないと知っているのだが、夢想するのは勝手だ。

サラリーマンではなく、自分がプロのピアニストとして活動する。考えたことが無いわけではなかった。


終盤に差し掛かる。この曲の難所。昔何度も何度も、死ぬほど練習した。苦痛でしかなかった。

しかし、ここを越えて、本当の終盤に差し掛かるとある種のカタルシスが広がり出す。
下から上へ上昇する命の叫び。一旦終わったかと見せかけて、もう一度、今度はさらにスケールを増し感情と共に競り上がり、そして最後は厳かに、悲痛に幕を閉じる。

あぁ…弾き切った。
拍手が聴こえて来る。
「す、すごい…」
マスターが呟く。

彼女は眼を瞑っている。余韻に浸っているのだろうか。
山田はピアノの席を立ち、もとの席に戻る。
彼女が山田を見る。
「いつからそれを?」
「昔から、ですね。暗譜できるのはこれくらいです」
「そうですか…」
さっきとは打って変わって物思いに耽るトーン。

「久しぶりに弾いたらとても気持ちよかったな」
山田は感想を呟く。

「ねえ、お名前は?」
彼女が山田に聞いてくる。
「え? 僕は、山田です」
「そう。山田さん…」
彼女は口元に手を当てて何かを考える様子を見せたが、やがてそれも束の間、
「では、またここでお会いしましょう山田さん。スケジュール表あるから、今度は演奏聴きに来てね」
「あ、ええ、勿論」
山田が返事をすると彼女はマスターにお礼を言って、最後に山田に会釈をして帰った。山田はただその姿を見送った。

***


こんなところで出会うとは。
私の初恋。私がジャズに進み、そしてクラシックを諦めた理由。

その少年はまだ小学生だと言うのに難曲を良く弾いた。特にショパンが得意だった。
私なんて足下にも及ばない。才能の差。幼い時分でも超えられそうにもないことを悟った。

でも彼はピアノを弾けることを周りの友達に隠した。あんなにうまいのに。私はとても羨ましかった。

彼は私の憧れだった。私もあんな風にピアノが弾けるようになりたい。なかなか追いつくのは難しいけど、同級生だし、こちらにも意地はある。
私は努力した。

彼は、彼はどうだったのだろう。本当にピアノが好きだったのだろうか。
ピアノ教室に来てピアノを弾く時はいつも脳面のような顔をしていた。
私たちの先生はとっても怖かったから、私はとても怒られた。
でも、彼が怒られているのは、私はあまり観たことがなかった。

小学校高学年のピアノの発表会。彼はショパンのバラード一番を弾いた。彼以外にそんな難曲を弾ける子はいなかった。
私は雨垂れだった。同じショパンでも、難しさが全然違った。
それでも、私は手こずった。

レッスンは、彼が私の後に予約が入っていることが多く、私のレッスンを見ながら待つことも多かった。怒られて泣きながらレッスンをしている姿を何度も見られた。

あまりに怒られて教室手前にあるトイレの前で泣いていると、そばに来て、彼は言った。
「里香、悪くなかったよ。上達してる。安心して。努力は裏切ってないから」
そして、彼は良くチェルシーの飴をくれた。私はそれを帰り道に食べて帰った。あの甘い味が忘れられない。

ある時、彼は音楽の授業でみんなの前でショパンのバラードを弾いた。正確に言うと、弾かされた。
クラスのみんなに茶化されたのだ。私は悔しくて、一度弾いてやれば、こんなくだらない奴ら一発で黙らせられるのに、なぜ何も言わずに我慢しているのかと腹が立った。そして、彼の手を強く握った。彼の拳は硬く閉じられていた。

鍵盤の上を踊る彼の手はいつもとても滑らかで柔らかなのに、その時は凄く力が入っていた。

彼は私が手を握ると、ハッとして私を見た。そして、恥ずかしそうに手を振り解いた。私の顔はきっと真っ赤だった。
それがおそらく私の初恋だ。

当時の音楽の先生はとても美人で、その時私と同じように彼女は彼を励ましていた。おそらく彼の才能に気がついていた。
そして、先生はいつもいい匂いがした。
きっと、彼は先生が好きだったのだろう。

彼は意を決したように弾いた。
ショパンのバラード一番。
発表会で弾いた曲。


演奏前に彼は大きく深呼吸した。
とても堂々としていた。そして、曲が始まった。騒がしかったクラスの皆んなは、最初の一音が始まり、3小節ぐらい過ぎる頃には誰もが黙りこくって彼の演奏を聴いた。

圧倒されたのだ。
当然だ。あんなに上手く弾けるピアニストがこんなところにいることなんて滅多にないんだから。
私はとても誇らしかった。その日以来彼を女の子みたいと茶化す子もいなくなった。

しかし、翌日黒板にはでかでかと相合傘が書かれていた。ご丁寧に私が彼の手を握っている絵まで描かれた。

私は酷く傷ついた。
しかし、彼は朝それを見つけるとすぐに、黒板消しで消して、私のところに来て、そして、おそらくそれを描いたであろう女の子を見て、「こんなレベルの低いこと気にしなくていいから」と言って、まるで何事もないかのように自席に座った。

それを描いたらしい子は、顔が真っ赤になって、下を向いていた。
私はますます彼が好きになってしまったが、同時に彼がひどく大人びて見え、どこか遠くへ行ってしまったような、そんな気持ちになった。

その後私たちの関係は残念ながら変化しなかった。彼はあの日からピアノ教室を休みがちになった。
私は逆に、その辺りからピアノの練習に熱が籠るようになり、いつかプロになることを考えるようになった。

でも、私はなぜだが音大に入った後もクラシックでは彼を超えることはできないと感じていた。結局大学ではジャズを専攻した。ニューヨークのバークリー音楽院に留学もした。

今ではプロとして活動し、有名なミュージシャンのバックミュージシャンをしつつ、その合間にはソロの活動も行っている。食べていくことはできている。

私のクラシックは、あの時、初恋とともに去っていった。

そして今日。
あの男の人。小学生の時の面影はあまりないが、ピアノに座った時のあの顔つきにどこか見覚えがある。
いや、それよりもあのバラードだ。だいぶブランクを感じさせるが、あの時を思い出させる情熱的な旋律があった。

彼は山田と言った。

たぶん間違いない。山田海斗くんだ。私の目標、そして初恋…だった少年。
もう二度と会うこともないと思っていた。

いや、馬鹿馬鹿しい。
十年、いや十五年以上前の話ではないか。
しかも、私はもうプロとしてピアニストとして自立している。振り返る必要なんて全くないのだ。

でも…。

やっぱり私の曲を聴いてもらいたい。
あのわだかまりを取り去らなければ、本当の卒業ができない。
私はなぜか彼がまたここに来ることを確信してピアノバーを引き上げた。

***

翌月。
僕は再びピアノバーを訪れた。
その日は朝から雨が降っていて、街はなんだか一日中静かだった。

今日はライブの開始から入店した。
真野香のライブだった。
満席ではないが割と混んでいた。
音楽目当てというより、彼女目当て客も結構いるようだ。

僕は奥の空いている席に陣取った。彼女がどんなジャズを弾くのか気になった。これからファンになれるかもしれない。そんな期待感があの日のMy Favorite Things にはあった。

暫くして、彼女が登場する。
厳かに。

一曲目はFly Me To The Moon 。ジャズのスタンダードナンバーだ。
右手で繊細なメロディーを弾く。しかし途中から何かに突き動かされているような独特のリズムになる。この前と同じだ。しかし、これが彼女の特徴なのだろう。自分を見てくれと言わんばかりのプレイ。しかし、圧倒される。

二曲目は打って変わって静かな曲。星に願いを。ディズニーの曲も彼女にかかれば華麗な曲に姿を変える。大人になった子供が弾くような、その子が大人になったような…僕は大人になったのだろうか。

幼い頃。すでに母は病気がちで、あまり動けなかった。ピアノを弾く僕のことが好きで僕は彼女に僕のピアノを弾かせることが母を元気にする唯一の方法だと思っていた。母はショパンが好きだった。
しかし、小学生6年の頃、うんと具合が悪くなり、入院した。僕はその頃からピアノを弾かなくなった。もう聴いてもらうべき人が家にいなくなってしまったからだった。

その頃一緒に同級生の女の子が同じピアノ教室に通っていた。僕に追いつこうと頑張っていた。彼女は今どうしているだろう。もう社会人になっているだろうか。名前はなんだったか…。

曲はWe are all aloneになった。
この曲の高音の繊細な始まりが好きだ。キラキラしているものの、どこか悲しげで。
そういえば、僕は悲しい曲が好きなんだ。これも母の影響なのだろう。
しかし、彼女の曲は、悲しい中にも圧倒してくる力強さがあった。なんだか勇気ずけられる。

僕は考えていた。
今の会社を辞めて、もう一度音楽を捨て身でやってみようか。
何を馬鹿な。

でも、前回このピアノバーでバラード一番を弾いた時に確信した。あの没入感。あれこそ僕が人生で求めていたものだったのではないか。三曲終わって彼女のMCが入る。

「皆様本日はようこそおいで下さいました。真野香のジャズナイト。三曲まとめてお送りいたしましたが、いかがてしたか?さて、今宵はジャズナイトではありますが、ここで一曲クラシックを弾きたいと思います。今夜は雨も降っていますし、ピッタリだと思います。私の大好きな曲。昔の私と、そして、昔この道に行くきっかけをくれた人に捧げます。特別なアレンジで」

クラシック?
クラシックも弾けるのか。そりゃそうだよな。

彼女は一瞬目を瞑って、呼吸を置いて、まるで何かを思い出して、そしてそれを封印するように弾き始めた。

ショパンの雨垂れだった。

入りは静かに、しかし厳かな感じで。その後さらに低音を響かせる。とても力強く、全てをひっくり返す、まるでバケツをひっくり返した雨の勢いで。

「あ…」
僕はようやく思い出した。

「違う!何度言ったらわかるのあなたは」
僕は人が怒られるのを、見ることが嫌いだ。
発表会を控えた秋の冷たい雨が降る寒い日だった。

同級生の女の子、里香はショパンの雨垂れを弾くことになっていた。僕らの先生はとても厳しく、里香は毎度怒られていた。僕は見ていられ無くなってトイレに行った。トイレから出ると女子トイレの前で里香が泣いていた。
少しずつ上達しているが、滑らかに弾くことができていなかった。
僕はその時持っていたチェルシーの飴を彼女に渡して声を掛けた。
「里香、悪くなかったよ。上達してる。安心して。努力は裏切ってないから。自信を持つんだ」
なんて偉そうなんだ、自分は何様だ。今では恥ずかしい。でも、その時は僕の方がうまかったし、なんだか彼女が健気で可哀想に見えた。

彼女、真野香は芸名だろうか、香を使っているのでおそらく間違いないだろう。

曲は途中から激しさを増し、そして彼女のアレンジが始まった。左手の一定の打鍵はリズミカルに跳ね出し、そして音も上がっていく。あの時の憂鬱な雨垂れではなく、あれから成長して、大人になった彼女の音。

もうあの頃とは全く違う、彼女のジャズ。
軽やかに時間を超えていく。

僕はその音とリズムに体を預けて目を瞑る。
なぜか涙が出てくる。

僕は恨んでいた。自分の境遇を。母を。看病にあけくれたあの境遇。
そして、それに甘んじてもいた。
本当は才能が無いことを自覚することを恐れていた。

あの時僕に追いつこうと必死だった里香。
しかし、あの日、僕がクラスでバラードを弾いた時以降、見違えるほど上達した。僕は逆にその日を境にピアノに触る回数がどんどん減っていった。

やはりプロになるほどの才能なんて自分にはなかったのだ。彼女のピアノを聴いてハッキリ自覚した。幻想を抱いていた。
逃げるのはやめて、僕も今の自分をそのまま認めよう。幻想を捨てて今の仕事に精を出そう。

雨垂れはいつの間にか終わっていた。
会場から溢れんばかりの拍手。僕は目を擦らながら拍手をした。
それから彼女はオリジナルナンバーやスタンダードナンバーを演奏し、アンコールも二曲目となった。

僕はアンコール二曲目の途中で会計を済ませ店を後にした。彼女と個人的に話したかったが、それは他のファンの手前無理だろう。きっと覚えてるわけもない。

店を出ると雨は上がっていた。
夜なのに明るい六本木通りをゆっくり歩く。

雨上がりの道は、なんだか良い匂いがして心は軽くなっていた。まるで彼女の打鍵のようだ。

「ちょっと! 途中で出て行くなんて酷いんじゃない山田海斗」
「え?」
名前を呼ばれて振り返ると真野香が立っていた。

「真野さん」
「なんで帰っちゃうのよ。普通待つでしょ。私はあなたを超えるためにあの日から今日まで必死に努力してきたのよ」
「え、香って、里香なのかやっぱり」
「やっぱりじゃないわよ。芸名信じてどうすんのよ」
「そんなこと言われても…」
「あんたはいつもそうなのよ。追いついたらどこかに行ってしまう。でも、今度は逃がさないわよ」
彼女は走って来て僕の胸に倒れかかる。
僕は彼女を抱き止める。息を切らしている。わざわざ走ってきてくれたようだった。
「ちょっと、どうしたの」
「わかんない」
「参ったな」
しばらく僕の胸に顔を埋める里香。

「くくくくく」
彼女は突然僕の胸で笑い出す。
「やっとリベンジが果たせたわ」
「いや、始めから勝ってないよ俺は」
「ええ!そうよ。そして生意気だったわ」
「はは、だね」
「…でも憧れだった」
僕はどうしていいか分からず彼女の頭をそっと撫でた。
彼女は黙って僕に頭を預けた。
そして、顔を上げて僕を見る。

「さ、飲み直すわよ山田海斗」
「え、これから?」
「当たり前でしょ。こんな美人ピアニストを一人にするなんてクソヤロー聞いたことないわよ」
「は、まぁそうだよね」
「来なさい。悩みでも聞いてあげる」
「ええ、いいよそんな」
「大丈夫海斗、安心して。努力はこれまでのあなたを裏切ってないから」
「なんだよそれ…」
「言いたかったの」
里香は山田の手を引っ張って、明るい六本木通りを歩く。


あの時握ったとても硬かった彼の手は、少し大きくなって、想像した通り滑らかで柔らかった。


恋すてふ
我が名はまだき
立ちにけり
人しれずこそ
思ひそめしか

(現代語訳)
「私が恋をしている」という私の噂が、もう世間の人たちの間に広まってしまった。他人に知られないよう、心密かに思いはじめていたのに。

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