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和歌心日記 6 崇徳院

瀬をはやみ
岩にわかるる
滝川の…


「いってらっしゃい」
「あぁ。ありがとう」

「ごめん。今までありがとう」
「もういいのよ。ほら、早く行って」
葉山道代は僕から2歩下がって手を振った。
僕も、手を振り返すしかなく、ほどなくしてボーディングゲートをくぐった。
一度振り返ったが、道代はまだ僕を見てくれていた。
その顔が脳裏から離れない。

取り返しのつかないことを僕はしたんだと、その時感じていた。

「大、例の件、ゴーサインだすぞ。いいな?」
「大丈夫です。昨日現地の鉄鉱石会社から供給の契約を締結しました。あとはこちらの資金調達の契約を進めるだけです」
「よし、良くやったな。かなりの大きい案件だ。間違いなく社長賞はいただきだ」
そう言うと上司の楠瀬は米金融大手のメンフィスグループ担当者と電話を繋いだ。

「Thanks a lot」
程なくして電話を切った楠瀬。
ニカッと笑ってこちらにサムザップをしてくる。
どうやら契約成立のようだ。

僕は大きな溜息をついた。
大きな鉄鉱石の輸出契約を結んだ。これでアジア諸国への鉄鉱石ルートを確保し、他社から一歩先に出れる。中国企業へのルートもできる。三年がかりの根回しの結果がようやく実を結んだ。

「村山、今夜、前祝い、やるか。ヒルトンのオイスターバーでも」
「すいません、今夜はちょっと」
僕は彼女の真希とディナーの約束があった。そろそろ結婚も考え始めていた。

彼女と出会ったのはニューヨークに赴任してから1年後のことだった。
最初のディールを結ぶ相手の製鉄メーカーで営業を担当していた。
父は米国人で母が日本人のハーフだった。バイリンガルで日本語もよく出来て、いろいろ助けになってくれた。それが高じて付き合うようになった。

「大、日本にはいつ帰らないとならないの?」
「まだわからないな。多分あと2年ぐらいはこっちにいられるんじゃないかな。今日あの大きな案件がまとまったんだ。それを進めていく仕事もあるしね」
「本当によかったわね。苦労してきたものね。でも本当に良かった」
「うん、いろいろ助けて貰ったよ真希には。感謝してる」
「そうよ、少しは感謝しなさい」
「は、はい!ご機嫌麗しゅう」
「馬鹿」
僕は幸せを感じていた。このまま彼女と結婚するのだろう。そう感じた。

「ちょっとトイレ行ってくるね」
僕はほろ酔いで席を立った。
ニューヨークでも評判のこじんまりとしたイタリアンに訪れていた。トイレは男女兼用で、外に一人女性が待っていた。
僕はその背後で待つことにした。

しかし良い日だ。この数年で一番良い日のうちの一つだろう。
このまま真希と結婚して、もしも子供ができたら…きっとその頃には日本に帰国するんだろうなぁ…なんてことをぼんやり考えていた。

トイレの扉が開いて前の女性が入る。出てきた女性が洗面所で手を洗っている。眼を瞑って水の流れる音をぼんやり聞いていた。まるで青森県奥入瀬の清流を流れる水の音のようだ。

「大…」
僕は眼を開けた。聴き覚えのある声。
まさか、いや、決して忘れられない声。

「道代…?」
「そうよ、忘れちゃったの?薄情ね」
「い、いや、そんなわけ…」

「久しぶりね」
あの日空港で別れた道代が立っていた。

「ひ、久しぶり。なんでニューヨークに…」
「知らなかった?うちもドメスティックな会社だけど、支店があるのよ。駐在は3人だけ。後は現地スタッフだけどね」
「そう、か…」
僕はまるで幻を見ている心境だった。

「あなたは?デートかしら?」
チラリと奥を見る道代。
「あ、ああ、そんなとこ」
「そっか。じゃあね」
道代はそう言うと颯爽と自分の席に戻って行った。僕は唖然として、酔いが醒めたような、醒めないような不思議な感覚に陥っていた。

「遅かったわね」
「ああ、トイレ混んでてね」
「私も行ってこようかな」
「ああ、行っといで」
真希は席を立った。その奥の方のテーブルに4人で来ていた道代がいた。残りの2人は外国人で道代は流暢な英語で会話をしていた。
「まじかよ…いつから…」
疑問がいくつも湧いた。
僕はテーブルに置いてあった白ワインを飲みながら、ボンヤリと彼女の横顔を見つめた。

彼女が振り向いた。僕を見てグラスを上げてウインクする。
僕は眼をパチクリさせる。そしてグラスを上げた。
そこへ真希が戻ってくる。
僕は慌ててそのグラスのワインを飲み干す。
「どうしたの?」
「あ、いや別に」

「そろそろ行こっか」
「うん。そうしよう」
僕は席を立ってレジに向かう。彼女を先に行かせて、僕は出口に向かう時に一度道代のテーブルを振り返った。

案の定、彼女は僕を見ていて、軽く手を振った。
僕は手を振るわけにもいかず、また眼をパチクリさせて、出口付近のレジに向かった。

「またね」
と彼女の唇が動いたような気がした。

夜風に当たる僕と真希。当然のように僕のマンションに行き彼女はうちに泊まった。
しかし、ぼくはその夜が覚めて、窓の外にある細い月を眺めた。

まさか。道代がニューヨークにいるなんて…。
僕はまたベッドに入り、目を閉じた。

それから1ヶ月、僕はもんもんとしながら、でも新たに決まったディールの事務手続きで、慌しい日々を送っていた。それから、彼女に会うこともなかった。

「大、明日の記者会見の準備は問題ないな?」
「はい。支社長のスピーチ原稿も既に提出済みです」
「了解。変な記者はいないと思うが想定問見直しておけよ」
「分かりました」
提灯記者会見だし、まぁ問題ないだろう。特に日本のプレスが多いわけだし。

「三ノ輪支社長ありがとうございました。それでは質疑応答に移ります。会社名とお名前をおっしゃってから質問をお願いします」
僕は会場を見渡した。だいたい最前列には日系の新聞社が並ぶ。

「はい、ではそちらの日本新聞さんからどうぞ」
いくつかの想定問通りの質疑応答が続く。支社長も現場上がりで業務を熟知していたため、そつなく質問に答えていた。

「では、次に、そちらの奥の女性の方…」 
「TDBの葉山です。三ノ輪支社長、今回の勝因はどこにあるとお思いですか?内外問わず競合がたくさんあったかと思いますが」

道代だった…
まさか、そういうことか。全然思いが至らなかった。あいつテレビ局の報道局にいたんだっけ。
「ここ数年我が社は水面下でさまざまな交渉を繰り返して来ました。おそらく競合よりも最も長い期間準備してきたとも言えます。その努力の集積が今回のディールに結びついたのではと思います」
「なるほど。これで日本の技術が生かされた鉄が世界中に運ばれていくのですね?」
「その通りです。精錬技術には奥深いものがあり、今回はそれをしっかり継承された良質な鉄の輸出が始まります。新しい時代が始まるのです」
「ありがとうございました。TBDでは、日本の夕方のニュースでこれを放送します。ご期待下さい」
なんてリップサービスだ。支社長の顔も綻んでいる。道代は質問が終わると僕にウインクして席に座る。
くそ、僕はまた過ちを犯しそうになっている。一瞬真希の悲しそうな顔が脳裏に浮かんだ。なんの予兆だよ。

「おい、大、聞いてるか?そろそろ質問を切れ」
楠瀬から指示が入る。
「あ、はい、すいません」
「それでは、これで記者会見を終了させていただきます」
僕は慌てて質問を打ち切り、記者会見を終了させた。会場から記者がどっと帰っていく。

その中に道代の姿を探したが、見つからなかった。少し話したかったが、仕方ない。いや、話してしまったら…どこかで安堵している自分に出会う。

会場を片付けて、ロビーに出るとまだ何人かの記者が社員を捕まえて話を聞いている。楠瀬もインタビューに応じていた。

その奥に三ノ輪支社長と親しげに話す道代がいた。カメラもいて、インタビューをしているようだった。
なんだあいつそんなことまでやるのか、道代の仕事ぶりを見たのはもしかしたらこれが初めてだったのかもしれなかった。

凛として、鋭い目つきで挑戦的な唇。あの頃と変わらず、いやあの頃よりも更に大人の魅力が増していた。三ノ輪支社長もご機嫌だ。

程なくインタビューが終わった。
二人は談笑をしている。
「あら、大、お疲れ様。おめでとう」
道代が僕を見つけて声をかける。
「なんだ!村山くん、道代ちゃんと知り合いだったのか?」
「え、ああ、まぁ」
「かなり昔に日本で知り合いになったんです。私たち」
「そうか。あ、じゃあ、明後日のディナー君も来るといい。TBDの支社長さんと道代ちゃんとディナーなんだ。プライベートだから秘書も来ないし、空いてないか?」
支社長の誘いでは断りようがなかった。
「はい、行かせていただきます」
「オッケーだ。じゃ四人に変更できるかな?」
「はい、支社長。手配しておきます。では明後日楽しみにしておりますね」
「ああ、山本さんに宜しくお伝えください」
「かしこまりました。じゃあね大」
「え?あ、はい、よろしく」
道代はしっかり社会人だった。
当たり前か、もう30も過ぎているんだ。

しかし、なんだかまずい気がする。行ってはならないと僕の中の誰かが言っている。

それは誰だろう。

「じゃあ頼むぞ村山くん。しかし、今日の司会も、それと今までの準備も本当に感謝してるよ。頑張ったな。ひょっとするとそろそろなのかもしれないぞ」
「え?」
「じゃまた」
支社長が意味深な発言をする。そろそろ…ってまさか帰国?このタイミングで…。

僕は会場を出て、オフィスに戻った。
しかし、なんだかやる気が起きない。
急に再会した道代、真希との結婚、そして帰国。頭がこんがらがっている。

僕は少し遅めのランチと言ってオフィスを出た。
セントラルパークが歩いて行ける距離にあるから途中のデリでクロワッサンとコーヒーを買って園内に入った。
幼稚園児とその先生が集団で芝生に座っている。長閑だ。こんな子供のうちの一人が自分の子供になっているのかもしれないなぁなどと想像した矢先、母親として自分の横にいるのが真希ではなく、道代になっていることに冷や汗をかく。

俺はやっぱり忘れられないないのだろうか。
真希のためにも、明後日の会食で自分の気持ちを確かめないとな。いや、向こうだって相手がいるかもしれない。自分のことばかり考えているのは周りが見えていない証拠だ。
僕は思い直して、オフィスに戻った。

その日は大した用事もなく会社を引き上げた。
しかし、帰国もあまりしたくないな。おそらく良い異動になるのだろうけど、もう少しこのディールに関わりたかった。

「へー、君たちは大学からの友人だったのか。通りで仲が良さそうなはずだ」
「まぁそうですね。あの頃はただ楽しかったですね。何も考えてませんでした」
「そうですね。若かったですねお互い」
「そんなもんだよな、大学生なんて」
「もしかして、もっと込み入った関係だったとか?」
道代と僕は一瞬顔を見合わせたが、道代がすぐに大きな声で笑い出した。
「どうした道代ちゃん」
「え、そんなことあったら面白かったかもなぁって笑っちゃったんです」
「なんだ違うのか、安心したよ」
「なんで三ノ輪支社長が安心するんですか」
「俺は道代ちゃんのファンだからね」
「ほんと好きですな葉山くんのことが。うちは助かってますけどね」
二人の社長が笑い合う。そりゃ道代みたいな聡明で綺麗な子が相手企業にいたらみんなファンになるだろう。むしろ俺よりも仕事ができるんじゃないだろうか。そんな気がした。

会食が終わり、支社長は二人でさらに別の会合に向かった。日系企業同士、支社長たちは付き合いも多い。

僕と道代は二人になった。
「ねぇ、もう一軒つき合わない?」
「え、どうしようかな…」
「まだ8時よ。おぼっちゃまはお眠りになるのかしら?」
「う、早いな。まぁいいか。行こうか」
「私行きたいところがあるの、そこでいいかしら?」
「ああいいよ」
道代はタクシーを止め、行き先を告げた。
タクシーは10分ほどマンハッタンをすり抜け、古めかしいビルの前で止まった。
「着いたわ。ここ行ってみたかったの」
ビルの入口は地下に繋がっていた。ジャズハウスだった。

「なあ、頼むから付き合ってくれない?」
「私興味ないよあんまり」
「いいんだ、付き合ってくれればそれで」
「もう。大学生なんだから一人でいきなさいよ」
そう言いながら道代は僕がどうしても入ってみたかった六本木の芋洗坂にあるジャズライブハウスに付き合ってくれた。

「今日はブラジル音楽のピアノがメインだって」
「へー」
「まじ興味なさそうだな」
「言ったじゃん、興味ないって」
「あ、そっか」
僕たちは笑った。
僕も全く知らないピアニストで。まだ駆け出しという感じだった。

お客さんは僕らの他にサラリーマンの男性が2人。盛況とは言えなかった。
でも、僕はわくわくしていた。僕は子供の頃ピアノを習っていて、ピアノの音が好きだった。ライブハウスでクラシックではないピアノの演奏を可愛い女の子と聴く。それが僕の憧れだった。

「ワンドリンク制となっております」
店員がそう言うので、僕はお酒と言えばそれしか知らなくて、ジントニックを頼んだ。道代はレゲエパンチを頼んだ。

一曲目はすこし激し目の曲。しかし、リズムがボサノバだからとても心地よかった。ドラムパーカッションも腹に響くリズムを刻んでいる。
曲は彼のオリジナルで、全く知らなかったが、とても心に沁みた。

ジントニックとレゲエパンチが渡され、僕らは静かにグラスを合わせた。カチッと鈍い音が鳴って、僕らは顔を見合わせた。
「なんか、もっと音って響くもんだと思ったね」
「全然カッコよく響かないね」
ワイングラスでもあるまいし、僕らはそんな知識さえなかった。ただそんな発見そのものが楽しかった。


2曲目は、ピアノの独唱。『月の光へ』というタイトルで、ドビュッシーの月の光からイメージを膨らませた曲で、それはとても美しい高音から始まった。ところどころドビュッシーの月の光のフレーズが入ってきて、道代もそれはわかるらしく、聴き入っていた。

その横顔がとても神々しく、僕は道代を、その時好きになったのだ。

「どうしたの?」
「え、み、見惚れちゃって」
「何馬鹿なこと言ってんのよ」
道代は僕の肩を叩く。
「え、いや、ほんと…」

ピアノはサビに入り、軽やかな和音が波のように何度も何度も繰り返される。
少し哀しくて、情熱的な、なんだか泣いてしまいそうなフレーズだった。

僕はたまらず道代の手を握った。嫌がられるかと思ったが、道代も眼を瞑り曲に体を揺らしながら握り返してくれた。
それからは、ずっと僕らは手を握って彼の曲を聴いた。

「ジャズハウスなんだここ、知らなかったな。有名な人でもやるの?」
「いえ、知らないわ。単にここの雰囲気がとってもいいって同僚に聞いたのよ。たまにはジャズもいいんじゃない?」
「そうだな。確かにもう全然行ってないや」
僕は苦笑いした。

ライブハウスに入ると結構人が入っていた。道代はバーカウンターに座ってレゲエパンチを頼んだ。まだやっぱりこれが好きなんだなと思った。そして、僕はといえば結局ジントニックを頼んだ。道代はそれを見てニヤッと笑った。
僕は情けない笑い顔を作った。

グラスが二つ運ばれてくるのと、会場の拍手が鳴るのが同時だった。僕らはグラスを合わせ、やはり鈍い音がして笑ったが、拍手でお互いの声は聞こえなかった。

そして、人垣であまり見えないが、3人の演奏者が位置について会場が静かになった。ピアノトリオだった。僕は目を瞑った。

それは本当に衝撃だった。
ドビュッシーの月の光の初めのフレーズが聞こえてくる。僕はドキッとした。

まさかな。そのままクラシックを一曲弾くのだろうか。そう思った。

しかし、予想は裏切られた。
月の光の四小節が終わったところで、あの高音が鳴り響いた。
徐々に勢いをますピアノの旋律。
来た。
流れるような波の旋律。
そして哀しく情熱的な和音の奔流。それが畳み掛けるように繰り返される。
僕は目を開けて道代を見た。
道代は僕を見ていた。
抑えきれない。だから嫌な予感がしたんだ。
僕は道代の手を握った。そして二人とも眼を瞑って旋律に身をたゆたわせた。

どんどん和音が流れていく旋律は速くなってますます情熱を帯びていく。しかし、どこか儚く哀しさが漂う。僕は道代の手を強く握り直す。彼女もそれに応じる。

最後には単音となるメロディーが繰り返されフェードアウトしていく。

会場は静まり返る。
ワッと誰かが叫んで割れんばかりの拍手。
僕はたまらず道代を抱きしめた。
それから後の記憶はあまりない。
気がつくと道代の部屋で僕は目覚めた。

僕はここでも取り返しのつかない事をしたような気がしていた。
道代は僕に告げる。
私、来週東京に帰任するの。
「え…」
「だから、あなたと会うのも最後になるかも」
「まじかよ…」 
「今更じゃない。昨日は楽しかったわ。懐かしくて涙がでちゃった」
「ああ…ほんとだね」
「もう少ししたら出るわよ。準備して」
「うん、わかった」
僕は昨日と同じスーツを来て、髪を撫で付ける。このまま会社に行くしかない。
「じゃあ、またどこかで」
道代のマンションを出て、僕らは逆方向に別れた。僕は一度振り返る。道代も僕を振り返って手を振った。その顔はあの頃と変わっていなかった。

僕はどこかホッとしたような、やはり取り返しのつかないことをまた今してるような、そんな気持ちになった。

「ええ、ええ、わかりました。では午後に御社の事務所で」
僕は大手町のオフィスで書類を整理して、今夜の深夜発のニューヨーク出張の準備をする。

あの日から3ヶ月後に僕は東京の本社勤務になった。肩書きも一つ上がり管理職になった。残念ながら真希と結婚することはなかった。東京に帰るまでに踏ん切りがつかず、そこで別れてしまった。

かと言って道代と再会したわけでもなかった。あの時連絡先を聞きそびれてしまったし、まだニューヨークにいる僕はこれも縁というもの、つまり結ばれはしない縁ということなのだろうと感じでいたからだ。

しかし、もう帰国して四年も経ってしまった。僕は相変わらず一人でのらりくらりしている。もう40が見えている。

こんなはずじゃなかったのになと一人苦笑いする。

「村山課長、航空券お渡ししておきます。ラスト一席ビジネスが空いてました」
「悪いな、楠瀬さんも人が悪いよな。急に来いなんて」
「愛されてますね。まぁあの案件じゃ村山さんが行かないわけにいかないでしょ」
「まぁ、な」
僕にも複数の部下ができて、航空券まで手配してくれる。歳をとった証拠のような気がして複雑だ。

「じゃあ行ってくる」
「お気をつけて」
部下に送り出され、タクシーで羽田に向かった。

羽田も綺麗になって、ラウンジもいい感じだ。
ビールを一杯飲んで、一瞬真希に思いを馳せ、そして、最後のあのジャズハウスを思い出す。

あの後彼の音楽『月の光へ』をダウンロードして、よく聴いている。今夜も飛行機に乗ったらそれを聴きながら寝ようと画策している。

搭乗ゲートを潜り、機内に乗り込む。やはり満席か。コロナも落ち着いて人の流れが増えている。

僕は窓側の席に座ると支度を整える。スチュワーデスがウェルカムドリンクを聞いてくる。
「ジントニック」
「レゲエパンチってないの?」
僕が喋るのと同じタイミングで聞き覚えのある声が聞こえた。

「あ」
「あら」
お互い顔を見合わせた。
「もしかして、ニューヨーク?」
「同じ案件かしらね」
「ってことは、そーだね」
お互い笑う。もう変なわだかまりは感じなかった。

「はい」
僕は思い出して、イヤホンを片方道代に渡す。
「耳に入れればわかる」
道代は悪巧みするような顔をしてイヤホンを耳に入れる。
彼女は大きく眼を開く。
そこへドリンクが運ばれてきた。
僕らはグラスを合わせる。プラスティックのグラスが鈍い音を立てる。
笑い合う二人。

耳から月の光への高音が流れ込んでくる。シートベルトをして目を瞑り、手を出す彼女。僕はその手を握り窓の外を見た。
もうこの縁を逃してはいけない。最後のチャンスだ。

少し曇った窓ガラスの向こうに、まんまるの満月がぼんやりと輝いていた。


瀬をはやみ
岩にわかるる
滝川の
われても末に
あはむとぞ思う

(現代語訳)
急な傾斜のため、川の瀬が激しく速いので、岩にせき止められた水の流れが一度は二筋に別れても、また後ほど出会うように、熱い思いで別れた私たちもまた必ず逢おうと思う。

続く。

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