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a little initiation

福岡を拠点として目に見えない世界のモノ、コトをさせてもらってます慈雨と申します。

よろしくお願いします。


これから
いろんな方の
生きかたと呼ばれるものが
輝き
うつくしく進んでいけましたら
と思い
こちらで活動させてもらっています。

この身体は媒体でして、
ひつようなときにひつようなものをお届けしています。


あらゆるとこからお伝えしたりしなかったり
なにかしら。
お届け出来たらとおもっています。

それは目に見えるものかもしれないし、見えないものなのかもしれません。
言葉に還元しているのかもしれません。
そもそも、そんなものはないのかもしれません。

ご自身でお気付きください。


波動やエネルギーという目に見えない調整も行なっています。

お話もさせてもらってます。


ひとは多くのものから見護られています。
実際、お届けされています。
受け取るのか受け取らないかはそのひと次第でもあるとおもいますし、
自由で
存在してらっしゃるとおもいます。

目に見えない存在からのメッセージをお預かりしてるときもありますし、
なにかしらお伝えしたいというときもあります。

カタチがないときもあります。
目に見えないだけで。

それらは、いつでもめにみえないものを投げかけています。
なのに、ニンゲンたちはそれらに氣付こうとしません。

受け流すことも多く。
流されたらすごくかなしくなるし
否定された氣分になります。

なので、なにかしらサインを起こさせてもらったりします。

そういう目に見えないことがこの世界というものに存在していてもいいのではないかとおもいます。

この世には、充分と言っていいほど、いろいろなことがあるのだから。

カタチがないと届かないのだろうかと
かなしんでる場合もあります。

届けたいのに届かない。
何故だか届かない。
その哀しさはご存知の方も多いのではないでしょうか。

でも、全然まったく届かないわけでもなく。
届くひとには届いたらいいなとおもいます。

「そんなのないよ」と言うひともいらっしゃるでしょう。
だけど、振動として届いたらいい。
それがいつかカタチになるのだから。

いつかわかることもあるとおもいます。


そういう、目に見えない存在のことばも汲み取ってるせいか、
同時に、
『生きてるうちにできることはしてください』ともお伝えしています。

身体があるから出来ることがあります。

せっかく存在しています。

創造することカタチにすることは尊いことだし
とても凄いことだとおもいます。

「好き」と言えるし、触れ合うことが出来るし、感じることも出来るし、味わうことも出来ます。笑い合うことだって出来ます。

共振ですね。

「たのしいねぇ」ってなにかを共有することも出来ます。

亡くなったあとに、そのプライスレスなことに氣付いても遅いのかもしれません。

(人って忘れやすいし、アルものが当たり前過ぎてて何故か見えにくくなりがち)


チャネリング等させてもらう機会もありましたが、
同時に
生と死の違いはなんなのかずっと問うてきました。

結局、おなじところにあるのではないかなとおもいます。わたしはですね。

目に見えるか見えないだけじゃないかな。分からないけど。
だけど、できることは違います。

じぶんというものはどう在ってこれからを循環させたらいいのだろうか。

コントロールは出来ないのだけれど、そうするためにはどう在るのがいちばんなのか。

常に問うてきました。

慈雨に来られる方々は【生きづらいなぁ、なんだかなぁ】とこれまで感じてこられた方も多く。

そうでなくなったかたもいらっしゃいます。

好きなことやほんとうにしたいことを実際出来てない方もたくさんお目にかかります。

「今世は諦めて来世に持ち越します」「もうムリ」という方もいらっしゃいます。
泣きたいですよね。

だけれど、今できることはあるのではないでしょうか?
少なくてもいいのです。大小関係ありません。

魂は記憶として覚えてます。

いま、出来ることがあるかもしれないのに、それをせずとも一生を終えるなんて。
自身にとって失礼じゃないのかしら。

ご褒美すらないのでしょう?

そんなのないよ。せっかくここまで来たのにさ。


チカラを抜くこともたいせつにしてもいいかもしれませんね。
抑圧してきたこともあるとおもいます。

もっとこの目の前の世界を信頼してもいいのかもしれません。
それは自身なのかもしれませんし。
可能なことはいくらでもあります。


慈雨も、「終えたほうがマシ」と思ってる時期がたくさんありました。

だけど、あるとき、死んでも無駄だと氣付いたときがあります。無理ゲーです。

また元のところに戻ってくるだけです。

『最初』がそのままの状態であって。

そのまままた同じゲームを続けることになります。

それこそ絶望でした。

辛くて辛くてしんどかったけれど、長い闇を抜けていまが尊く瞬間として存在していて。

そのときを越えたのは目に見える見えない関係なく周りに存在してるもののおかげだとおもいます。

同時に、自身や周囲のお陰でもあります。
(よくガンバッタヨ。オメデトウ。

終えても良かったけれど、終えなくても良かった。

「ごめんね、雑に扱って。」
といまはそう思っています。

その頃は、勝手に終えなくてはいけないとおもってました。
居る意味も場所もこの世には存在し無いと信じてたのかもしれませんね。
いまはどうだっていいです。

いまは生きれてるかなぁ。笑
生かされてるのかなぁ。
存在してるのかなぁ。

まぁ、どんなときも境界線が薄かったのですが
生きるということに必死過ぎて、死ぬことへの執着も凄かったんだとおもいます。

どちらも存在してました。両方に必死だったんですよね。

『生きるとは?』についてはずっと問うてましたが、
いまは『存在すること』なのかなぁなんておもっています。
カタチをあらわすこと。
凄く、存在すること。

("凄く"はなれませんが、圧倒的に著明に存在すること。レベル強?笑)

呼吸しながらうちらは廻っていて。
自転しながら公転してその生命を繰り返してるんじゃないかなぁ。なんて。



あと、身体からのメッセージをお伝えするときもあります。

ひつように応じて、お身体に触れさせてもらってます。
その振動や揺れにより、その身体はなんと言ってるのでしょうか?

魂というか潜在的なところに繋がってもいるし、
宇宙というものがあれば、それに繋がってたりするし、
なにが出てくるのかそのときにならないとわかりませんが、
分からないからおもしろいっていうのもひとつの方法だとおもっています。

それがそのときの答えなんだとおもいます。


ひとは極論、どうしたっていいとおもいます。

但し、ひとを傷つけないで在ってくれたら嬉しいです。
誰かを傷つける権利とか、この世には存在しないとおもいます。
なにかしら不具合が起きます。
と言って、自身を傷つけることもまた違って。

締め付けるのも、もはや暴力です。

やり過ぎたら、何故か
どこかからストップがかかる場合があります。

現象となり、目撃されます。

したくないのに続けてること、
はじめたいのに始めれないことはありませんか?

それを行動に移すのもひとつの手段だとおもいます。

ココロは無視出来ても、身体は正直。
カタチとしてあるのだから。

身体と精神、脳、意識、そして目の前の現実は繋がってます。

だから、身体を労わることもひとつの方法だとおもいます。

だいじなもの。


「周りの笑顔や存在を観たい」という根本の願いがあるのに、その『観る』ひとがいなかったら
その現実はいつまでたっても証明されません。

周りをたいせつにすることもだいじですが、あなたの想いや願いをだいじにすることもあなたのたいせつな役割だとおもいます。

役割を持つことは尊いことなのかもしれません。

だけど、じぶんにしか叶えることしか出来ないことがあることも。
ひとつの物語、ストーリーだとおもいます。

たいせつにされてきたこと、護られてきたこと、他のなにものにもならなくていいこと。

なにかのキッカケになってくださいましたら幸いです。

そのままの姿で、あなたがすすむべきところへ、進まれてください。

あなたは今後どう在っていますか?
どういう世界を観ていきますか?


語り部もするし
誰かの声を届けることもあります。
エネルギーを調整しているときもあります。

届けることを躊躇してきましたが、実際届けています。

そういう役割を担うことは有難いことですし、
素晴らしいことだとおもいます。

これからもあたらしいカタチとして存在出来たら幸いです。

たくさんのことがまわっていくよ。

それではまたね♡


プライベートセッションにつきましては
下記ページをご参照ください。


ありがとうございます。とても嬉しいです。歓び、循環、還元に使わせていただきます!