道徳教材研究11「奪われた自由」から考えたこと
「奪われた自由」の教材は、ネットで「私たちの道徳」を検索すると出てきますので、そちらをお願いします。
教材はこのPDFの35Pです。(「私たちの道徳」教材は公開されています。)
教材研究をしたので、その思いのままに綴ります。
「囚われのガリューと気ままのジェラール王子、どちらが自由なのか?」と考え始めました。
ガリューから考えられる「自由」とは、「良いこと悪いことを自分の頭と心で判断して、自分の信念を貫き行動すること、その結果、自分の言動の責任を負うこと」だと捉えました。
ガリュー。牢屋に入った彼の肉体は自由ではなくなったが、精神は自由なままなのではないか・・・。
(ロシアのナワリヌイという政治家が、自分の信念を貫くために、わざわざ亡命先のドイツからロシアに戻って捕まりにいった話を思い出しました。)
精神の自由と肉体の自由は違うのかもしれない。
ジェラール王子は、立場を利用し、傍若無人な振る舞いで、気ままな生活を送り最後は牢屋に入れられてしまいます。
彼は、最後の場面では、自由について考えるに至っていないと思います。
「自由」について葛藤をし始め、入り口にようやく立てたぐらいです。彼にあったのは、自由ではなく、「快楽の享受」だけだったのだと思います。
皮肉なことに、ジェラール王子は、最後に牢屋に入り、「肉体の自由」を奪われることで、(制約があることで)ようやく自由について考えることができたようだと考えました。
さて、この世界において、自由とは、一律なのでしょうか?
国により、場所により文化により違いますね。
ある国では、認められていても、ある場所では認められない。
それは、文化や法律など、見えるもの、見えないものによって境界線がありますね。
「自由」とは、際限のない野原のようなものではなく、仕切られているエリアの中にあるもののように思ってきました。
仕切りのような制約のもとで、何がどこまでできるか、他者との境界線に理解を求めて求められ、葛藤し決め合いながら、形を変えていくものだと思いました。自由がある代わりに、それを超えるときには、責任が付帯する。
最後の場面では、ジェラールはとガリューと「自由」を比較するレベルではないと思いました。
そしたら、私の頭の中には、「ジェラール王子の側近」たちが思い浮かびました。
彼らの中には、「これは良くない」と判断があっても、進言できなかった者がいるはずです。彼らこそ、精神的にも肉体的にも自由のないものたちではないかと思いました。判断があるのに動けないからです。(自分の保身や昇進や恐怖とかだったかもしれませんが)
さて、私たちは自由をどう捉え、どう生きたら良いのか?
自由の枠を超えた時、責任を取る覚悟があるのだろうか?
いやいや、「自由」の枠組みを変えるために、戦う必要はないのだろうか?
そんなことまで考えさせられました。
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