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【後編】昭和・平成・令和につながった長い「人生のストーリー」

【前編】の続きです。長い記事です…。

大人になった彼と私のその後、「昭和」が終り、時代は「平成」へ、そして「令和」を迎えた。還暦を過ぎ、新たなフェーズになっていく~人生って、不思議だな~


【大人編20代】昭和の終わり

◆Y君の葬儀での再会

結婚の翌年、私は、女の子を出産した。実家で、お産をして、自宅に戻って、しばらく経った頃、彼から電話が来た。もちろんまだ、黒電話の時代。

彼からの電話は「中学時代の同級生のY君が、自動車事故で亡くなった」という悲しい連絡だった。

Y君は、優しい人だった。

高校時代、こんなことがあった。

彼が、Y君ともう一人同級生のM君を連れて、私の家にやってきた。この時、彼が私の部屋で、タバコを吸った。高校生のくせに~

「私が吸ったタバコ」じゃないのに、もし、私の親が見つけて、私が怒られたら「かわいそうでしょ~」と言って、Y君は、彼が吸った「タバコの吸い殻」を、ティシュに丁寧に包んで、わからないようにしてゴミ箱に捨ててくれた。

そんな人だった。

Y君の葬儀で久しぶりに、中学生の友人たちと会うことになった。彼とも、結婚後、初めて会うことになった。

地元で執り行われたY君の葬儀の後、彼を含む友達数人が、私の実家に集まった。私は、実家に子どもを預けて、葬儀に参列していたので、私の赤ちゃんをみんなで見に行こう!みたいなノリだった。
当時、私以外で結婚している人は誰もいなかった。4年制大学に行った同級生は、まだ学生だった。彼も、学生のはずだ…。そんな年齢の頃だから、みんな「興味深々な感じ」で、私の赤ちゃんを見ていた。

◆実家で交わした「彼との会話」~時代は「平成」へ

この頃、私は、子育て真っただ中だった。娘を連れて毎日、公園に行き「家事と育児」の日々だった。そして数年後、私は、第二子出産のため「実家」にいて、娘と過ごしていた。私のお腹もだいぶ大きくなっていた、そんなある日、彼が実家に来た。どういうきっかけだったかは、よく覚えていない。

でも「この時の会話」を、私は覚えている。
「大学は、どうしているの、行ってるの?」と尋ねた。彼は、全く大学には行っていなかった。~というより、行く気が無かった。大学に「籍」は残したまま、相変わらず音楽活動中心の生活をしていた。彼の親は、学費を払い続けてた。

今にして思うと、彼の「ご両親の心中」は、自分の息子が、果たして音楽で食べていかれるのか、わからない状況の中で「保険」のように学費を払っていたのだと思う。私は、まだこの頃、「親として新米」だったから、「大学生の子どもの親」の気持ちまでは、察することができなかった。当然、彼自身も、そんなことは、全く思っていなかっただろうし、恩着せがましく、息子に言うようなご両親でもない事も、想像できる。

そして、彼は「大きな会場」でライブの予定があることを話していた。「そんな大きなところでやって、集客できるの??」と私は、彼に言った事を覚えている。

ところが、予定していた「大きな会場」でのライブは「中止」となってしまった。ライブの数日前に、昭和天皇が崩御され、日本国内が「喪に服した」ためだった。

それから、数年が経った。
たまたまテレビに出ている彼の姿を観た。その姿は、華やかで、堂々としていた。「浪人時代の疲弊した彼」とは、別人だった。高校時代、「厭世」という言葉を口にしていた彼とは、全く違う人だった。

その後、彼の音楽活動は、ある意味、順調で「仕事として成り立つ」ようになっていたのだ。

時代は、平成になっていた。

【大人編30代】

◆私に起こったトラブル

結婚生活が、10年を過ぎた頃、私は「大きな試練」を経験する。夫が「金銭トラブル」に巻き込まれたのだ。

ある日突然、「弁護士を名乗る男性」から電話があった。「私の名前をご主人から聞いていませんか?」と言われた。いったい何のこと?と思った。そういえば数日前から、何かおかしかった。

友人が紹介してくれた弁護士の先生のお陰や、周りからの援助もあり、車も家も手放したけれど、生活はどうにかなった。どこか「心機一転」のような雰囲気だった。

でも、私には、「払拭しきれないシコリ」のよなものが、深く残った。

ことが起こる数日前に、電話をしてきた「弁護士を名乗る男性」の「私の名前をご主人から聞いていませんか」という言葉は、自分の「妻という立場」に対して「懐疑心」を生んだ。

そして、この出来事を通じて「人生は、そんなに簡単ではない」と、今まで感じたことがない「重さ」を感じたのだ。

◆「人生の再構築」と「彼との電話」

その後、生活は「何事もなかったように」新しく始まった。でも、私は「シコリ」を抱えたままだった。

日々の生活に追われ、バブルという時代に煽られるように過ぎた、10年の結婚生活の中で、私は完全に「自分」を見失っていた。
何か違う~このままだとダメだ〜「自分は幸せにはなれない」と確信した。体調も優れず、体中に「じんま疹」が出た。

いったい何がいけなかったのだろう~。
結婚した「二十歳の時」まで「人生を巻き戻して」もう一度、「人生」を見つめ直さずには、いられなかった。

私は、数年ぶりに彼に連絡をした。

私にとって、人生で初めて自分と向き合った「苦しい時」は、高校時代だった。彼と毎日のように「対話」をしていた頃だ。あの頃の「彼が知っている私」は少なくとも「今の自分より私自身」だったはずだ。私は、自分を取り戻したかった。

この時、彼は、私を少し馬鹿にするように言った。

「今の船に乗っていたら、ヤダヤダと言ってても、自分の行きたくない方向に行っちゃうんだよ。その船から降りなければ、行きたい方向には行かないんだよ。ボランティアでもなんでも、とにかくやったらイイんだよ!」

私は、彼の言葉で、動き出した。
後に私は、ある国際NGOの日本関連団体の事務局を10年近く担うことになったのだ。

*****

◆彼の「ライブ」行く

私は、子育ての傍ら、「自分を取り戻す作業」に没頭する日々だった。それは、数年続いた。

この頃、彼の音楽活動は、完全に彼の「仕事」になっていた。そして、自分が出るライブがあるから来ないかと声を掛けてくれた。

ところが初めて誘ってくれたライブに、私は行かなかった。何故なら、まだ末娘が幼く、置いていくわけにもいかず、夜行われるライブに、連れまわすこともでいなかったからだ。

翌日、彼から電話があった。私が行かなかったことを知って、彼は、なぜか憤慨していた。

「小さい子どもがいるのだから、しょうがないでしょ!」と思ったけれど、私の事情は、彼には分からなかっただろうし、会場に来て、自分が音楽をやっている姿を観て欲しかったのだろう。これまで、ちゃんと彼の音楽を聴く機会はなかった訳だから。

◆彼のお母さんとの「再会」

次回は、何としても行かねばという気持ちでいた。その後も、彼は、ライブがあると声を掛けてくれた。

初めて彼がプロとして出ているライブに行った時、彼のお母さんとも久しぶりにお会いした。

人がいっぱいいる会場で、彼とはちょっと会っただけだったけれど、彼のお母さんは、私が声を掛けると懐かしそうに喜んでくれた。「高校生」以来の再会だった。

後日、私は電話で、彼のお母さんと話しをした。

私が結婚する時に「幸せになってください」と言ってくれたあの時以来の電話だった。

この時、彼のお母さんは「息子の音楽活動を親として、出来る限り応援しようと思ったこと」や「彼が選んだ道を、私が受け入れなかったこと」を息子から聞いた時の事を話してくれた。

彼が「お母さんが大好きな息子」であることは、知っていたけれど、きっとオープンな親子関係で、私の事もいろんな話をしていたんだろうな~と思った。
「彼と私の関係性」は、二人だけではなく「周りも巻き込んでいたのだ」と初めて気づいた。

*****

◆「彼への手紙」みつける

高校生の時、彼に「手紙」を何度か書いた。彼も私に手紙をくれた。あの頃の彼から届いた手紙には「付き合っていくための心得」のような内容や、友達と地下鉄でキセル乗車をしたのがバレて、駅員に追いかけられたエピソードがユーモアいっぱいに書かれている内容とかだった。

手紙が「電話以外の一番の連絡ツール」だった時代なので「手紙」のやり取りは「普通のこと」だった。

30代、私は、彼に再び「手紙」を書いている。記憶は全く無いけれど、「日記」にそう書いてあった。

手紙を受け取った彼は、後日、私に電話をくれている。それも記憶には全くないことだけれど「日記」にそう書いてあった。

さらに衝撃的なことに、当時、封をしたままの投函しなかった「二通目の手紙」が、日記ノートにそのまま挟んであった!

むかし高校生の時、夜中、彼宛に書いても「投函しなかった手紙」が何通かあったけれど、30代も出さなかった手紙があったんだ。

「どうしよう~」と思ったけれど、そのままにしてある。30年前の「手紙」に何が書いてあるのか、ちょっと怖くて開けれない~。果たして、開封する日は来るのだろうか…

【大人編40代】~IT革命以降

◆40歳の時、彼のお父さんが「癌」で亡くなった。

彼のお父さんが、闘病をしていたことは、彼から聞いて知っていた。お父さんが亡くなった時、彼は電話をくれ、最期、自分が看取ったことも話してくれた。

私は、葬儀には伺わなかったけれど、後日、ささやかな「お花」を彼の実家の住所に送った。

お花が届いて、彼のお母さんから電話を頂いた。

「お父さんが癌だったことは、彼から聞いて知っていた事」や、若い方ではないから、癌を抱えながらもダラダラと病気と付き合いながら、長く生きられるのではないかと私は思っていたので、訃報を聞いて「突然亡くなってしまったと感じていること」を、私は伝えた。彼のお母さんは、私の言葉に「そう思ってくれて、ありがとう。」と言ってくれた。

雑談もした。私が、「もう40歳になるんですよ~」と自分の年齢を悲観したら、「何いてるの、40歳なんて、まだまだ若いわよ~!」と激励されたことを今でも覚えている。確かに、40歳は、ぜんぜん若いぞ!

数日後、彼のお母さんから、ご丁寧に「お返しの品」が送られてきた。そして「手紙」も頂いた。

最近になって、いろいろ整理していたら、その「手紙」が出てきた。

数年前、私は、数か月単位で引越をしてた時期があった。移動する度に、荷物を整理し、かなりの物を断捨離した。それにも関わらずその「手紙」は、引き出しの中に残っていた。今でも、その「手紙」は大切に持っている。

◆時代は、「携帯電話」と「インターネット」へ

この頃、「携帯電話」がだいぶ普及してきた。私は、「携帯電話」を持つようになったのは、40歳を過ぎてからだった。彼とメールのやり取りをしていたのかもしれないけれど、あまり記憶が無い。

私は、40代になって、初めてフルタイムで仕事をするようになった。家庭と仕事で、毎日クタクタだった。成人した娘もいたけれど、子ども達が、大人になったらなったで、いろいろと家庭の中は大変だった。
「金銭トラブル」以降、夫とは、ずっと別居状態だった。様々な状況変化に伴い、正式に離婚をしたのもこの時期だった。

時代は、完全に「インターネットの時代」を迎え、彼との連絡ツールも、おそらく携帯電話に変わっていたのだと思う。

しかし、そんな事よりも、私はこの時期、時系列で思い出せないぐらい、家庭の中でいろんなことがあった。そして、このあたりから、彼とは音信不通になるのだ。

後で聞くと、この頃、不規則な生活の中で、彼は体調を崩していたようだった。

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【大人編50代】

◆「実家」に住む

私が55歳の時、父は亡くなった。高齢の母が一人、「実家」に残った。私は「実家」に移り住み、母と一緒に暮らすことにした。そのために仕事も変えた。

結婚が早かった私は、「お産」や「子どもの夏休み」を実家で過ごすことはあったけれど、自分の「生活の拠点」を「実家」に置くのは「学生以来」だった。
母も、「大人になった娘」と一緒に暮らすことに慣れていなかった。最初は、お互いやりずらかった。

◆「母の無神経なセリフ」

私は、既にこの人生の中で、多くの「経験と学び」を得、娘たちとも様々な出来事を共有し、十分に「満足のある人生」を送ってきた。

ところが母は、自分の娘が「人生を謳歌していること」を理解していない。

誰でも「結婚生活」や「子育て」の中で、大変な時は「愚痴」も出る。
私が、ちょっとでも、これまでの生活の「愚痴」を母に言おうものなら、「だから、結婚に反対したのよ~」 とか言ってくるのだ。
確かに、私は「親が反対する結婚」を選んだ。

さらに「彼」のことを持ち出してくるのだ!

「あの人(彼のこと)と結婚すると思っていたから~、なんで結婚しなかったの~、あの人だったら良かったのに~」とか・・・

確かに彼は、うちによく来てたから、私の家族と顔見知りだった。

しか〜し、、いったい何十年、前のことだと思っているんだ~!「彼のこと」を蒸し返すのは、やめてくれ!!!(怒)

実家にいる私を、まだ二十歳だとでも思っているのか~!何にもわかってないくせに〜!!

今に始まったことではない、これまで「40年の歳月」の中で、母はこの「セリフ」を何度も私に言った。(怒)

さすがに、「還暦前の私」は、母に、怒りを込めて叫んだ。

「確かに、私は、親に迷惑をかることもあった。そして、たくさん支えてもらったことを感謝もしている。だけど、私は、この人生でホント~~~に良かったと、心から思っているのよ~!!!なんの後悔もな〜〜い!」

でも、ふっと思った。
この「母の無神経なセリフ」で、「この人生」を私は「気に入っている」ことに気がついたのだ。

母は、「私の人生」を絶対に理解できない。
改めて「自分の人生」を振り返ってみると、実際、大変ことばかりだった。娘たちも、ちゃんと成人したけれど、親として納得のいくことばかりでは無い。結局「離婚」も経験した。こんな「私の人生」を、母が理解できるわけがない。

辛かったり、悲しかったリ、そんなことは沢山ある。でもその分、人生って「何層にも重なっていて面白い」と思う。今まで、多くを経験できた自分は、幸せだなあ~と思う。
こんなふうに思えるのは、「この人生」があったからだ。

幼い時から、全てが揃っていて、何不自由なく、守られて育ってきた私が、「自分はこのままで、本当に幸せになれるのだろうか」と思うようになった。
それでも、未知の次元に進むのは怖くて葛藤していたそんな「二十歳の自分」を思いだした。

◆むかし「彼から言われた言葉」を思い出した!

高校生の時「おまえは、『親』と『自分の人生』と、どっちが大事なんだ!」と彼が叱責するように、私に言ったことがあった。

たぶん、私が、何気なく「親が喜ぶ人生が、自分の人生だ」みたいなことを言ったのだと思う。それに対して、彼が「それは違うだろ~!」と憤ったのだ。当時の私は、彼の「言葉の真意」がわからなかった。

でも結局、私は彼の「言葉の真意」の通り「自分の人生」を選んだ。周りからはそう見えなかったかもしれないけれど。

◆「もし、彼と結婚していたら~」実家に住みながら、私は思い巡らした。

もし、彼と結婚していたら、私は「この人生」を手に入れることが、できたのだろうか・・・

私が彼と結婚していたら、きっと息子思いの彼のご両親は「夫して未熟な息子」を全力でサポートし、私たちの結婚生活を支えてくれたのかもない。私の親も、彼との結婚なら、若くても反対しなかったかもしれない。(むかしから私の両親は、彼を気に入っていたから・・・)

だけど、そんな生活の中で、果たして私は「自分の人生」を手に入れることができたのだろうか。

還暦を前に、実家に住むことになった私は、「母の無神経なセリフ」に怒りながらも、様々なことを思いを巡らし、自分の人生に「感謝の気持ち」を持った。

◆「実家」を片付ける

実家は、持ち家で築50年だった。母との同居が始まってからも、数か所の最低限の補修は、しなければならなかった。そのたびに、出費がかさんだ。

2階は、使わない荷物であふれ、ほぼ「物置状態」だった。家を建て直す「経済的余力」は無い!
父の「三回忌」を済ませた私は、実家を処分することを決めた。

「50年間動かさなかった荷物」の片付けを少しずつ始めた。

とにかく捨てた!
庭がゴミ袋でいっぱいになり、ゴミの収集日には、本当に全部持って行ってくれるのか、収集車が行った後、必ず確認していた。

黙々と「お片付けをする毎日」を送っていたある日、玄関の下駄箱の中に「番傘」を見つけた
高校時代に彼がくれた「修学旅行のお土産」だ。

棄てなかった「番傘」

そういえばずーっと置いてあった。
今まで何度か「捨ててイイよ~」と私が言うと、父は、この「番傘」をけっこう気に入ってて、「あいつが、持ってきたんだろ~、取っておけ。」と言って、捨てずにきたのだ。

最後の実家の片付で「どうしよう〜」と思ったけれど、父の「取っておけ」という声が聞こえて、捨てなかった。

私の勉強机は、ずっと2階の私の部屋に置いてあった。
高校時代、彼と毎晩、おしゃべりしていた「アマチュア無線の無線機」が、勉強机の下から埃だらけになって出てきたけれど、捨てた。
机も、もうない!

机の下にあった「埃まみれの無線機」

私たちの高校時代は、「スマホ」は無いから、写真を撮ることは日常的なことではなかった。だけど1枚だけ、実家の2階の廊下で撮った「彼とのツーショットのピンボケ写真」が、どこかにあった。実家に来る度に、見かけていた。でも「その写真」を見つけ出すことは、出来なかった。

【還暦編】

◆「平成」から「令和」へ、そして彼から再び連絡が来た!


実家を処分し、数年ぶりに、母を連れて「自分の場所」に戻った。
時代は「令和」となった。

ずっと目まぐるしいことが続た生活が、少し落ち着きだした頃、中学の同級生を通じて、彼から突然、連絡が来た。

いったい何があったの~ 
何故、連絡が来たのだろう~ 

SNSで繋がって、事情が分かった。

ちょっと前に、私の実家の前を車で通ったら「更地になっててビックリした!」というのだ。それで気になって、連絡をくれたのだった。
私の実家があった場所は、奥まっていないので、車だと必ず通る道沿いにあった。彼の実家には、今もお母さんが住んでいるから、地元に行くことがあるのだろう。

電話では、話さなかったけれど、SNSで彼と繋がった。「今どこに住んでいるのか」とか、「母親は何歳になった」とか、「親の介護はあるのか、ないのか」とか、そんなやり取りをした。

実家で母と生活をしていた3年の間も、この道を「彼は、車で通ることがあったのかもしれない」と思うと、なんだか不思議な気持ちになった。

◆再会~「母親」のような気持ち

それからしばらくして、還暦ライブをやるから、来ないかと誘いの連絡をくれた。二十歳の時「私から離れて選んだ道」を、彼は挫けることなく続けていた。

ライブの当日、最初に連絡をくれた中学時代の友達と待ち合わせをして、会場へ向かった。彼女とも会うのは久しぶりだった。懐かしい話が沢山できた。

彼が、音楽をやっている姿を観るのは、何年ぶりだろう。

私には「理解できなかった道」を選んだ彼は、藻掻きながらも、必死に人生を築いてきたんだな~と「ステージの彼の姿」を観ながら、自分の人生の時間を、重ねた。

久しぶりに観た彼の姿に、「よくここまで頑張ったね~」と「母親」のように、声を掛けてあげたくなった。

この日、殆ど、彼とは話をしなかったけれど、ライブ終了後、友達も一緒にみんなで写真を撮った。写真は、後日LINEで送られてきた。

◆彼に、ちょっと「お願い」をした

その後も、SNSを使って会話をした。

そして、地元に行くことがあったら、私の実家があった場所に、どんなお家が建ったのか、ちょっと気になるので、写真を撮ってきて欲しいと、お願いをした。彼は、快く引き受けてくれた。

後日、写真がLINEで送られてきた。50年間、自分の実家があった場所には、スタイリッシュな「素敵なお家」が建っていた。その写真を、私は娘たちともシェアした。

高校時代、私の家の「玄関前」で、彼とよく喋っていた。いつまでも喋っていると、「家の中に入って話せ!」と父が出てくることもよくあった。

その「玄関」があった場所と同じ位置に、新しいお家の「玄関」もあった。

「親と自分の人生とどっちが大事なんだ」と彼から言われたのも、確か、うちの「玄関」で喋っていた時だったと思う。

この場所に再び、新しい家族が住んで、生活を送りながら人生が紡がれていくのだ~

◆「人生」と「生活」は違う

私は、彼と「一緒に暮らしたこと」がない。だから彼が、自分の脱いだ服を、脱ぎっぱなしにせず、ちゃんと洗濯機に入れられるのかどうかを知らない。部屋の掃除をちゃんとする人なのか、ゴミ捨てをちゃんとやるのかどうかも、私は知らない。

逆に私が、子ども達のお弁当作りから、慌ただしく一日が始まり、洗濯機を毎日、2回は回していたこと事や、どんな食事を作ってきたかを、彼は知らない。

つまり、彼との「関係性の舞台」は、「生活」ではなく「人生」なのだ。

「苦い思い出」も「思い通りにならなかった出来事」も、自分の「人生のヒダ」を増やしてくれる。そして、巡ってきた時間が、それらの出来事に、若い時とは違う「意味」をもたらしてくれる。机上の理論通りでは無い「矛盾」だらけの、そんな人生が、私は好きだ。

彼の名誉のため、ここには書かなかった若い頃に言われた「いじわるな彼の言葉」も、ドラマチックな人生の一コマだ。

◆私が「少女」だったように、彼もまた「少年」だった

この年齢まで生きてきて、学生時代の友人と会ったりした時に、誰に対しても感じるのは、「その人の本質は、歳月が経っても変わらない。」ということだ。

彼のライブに一緒に行った友達も、久しぶりに会って話をすると「やっぱり彼女なんだな~」と思った。
「彼女の良さ」は、生きてきたから出来上がったものでは無く、もともと中学生のときから「彼女の中にあったもの」だ。そんな彼女を、私は、むかしから尊敬している。

確かに「人生経験」や「社会経験」を積むことで、人は成長するようにできているけれど、「本質」は、そんなに変わらない。だからこそ、人は自分の「本質」を守るためにも「葛藤」するのだ~。

私も、大人になってから「生きていくための社会的スキル」みたいなものは、学んできたけれど「本質的な部分」は、もしかしたら「少女の頃」と変わらないのかもしれない。

そして、「少年だった彼」に、私が見た「輝き」は、彼の中で「今どうしているのだろう」か。

一つの道をずっとここまで歩んできた彼のどこかに、「今も存在している」のだろうか…。それとも、消えてしまったのだろうか・・・

たぶん、大人になってから、かぶってしまった「仮面」を外すことは、もう彼には、無理なんだろうな~と、私は思っている。

だから、高校生の時みたいに、彼と「無邪気なおしゃべり」をすることは、どうなんだろ…出来るのかな~??。

もしかしたら、もっと歳をとって、訳が分からなくなって、お互いに誰だかわからなくなったら、また「一から新しく出会える」ような、そんな気もしてくる~。
でも、そんなに訳が分からなくなるまで、私は、長く生きたいとは思っていないから~。

あとどれぐらい、人生が残っているのかは分からないけれど、この歳まで、まだ彼と、なんとなく繋がっている「人生の不思議さ」が、私は好きだ。  (おしまい)

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長い記事、最後まで読んでくださって、ありがとうございます。



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