「極端」はお前らの方だろう

先日こんな記事を見た。

一部を引用する。

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嘱託殺人罪などに問われた医師、大久保愉一被告(45)の11日の裁判員裁判初公判を受け、ALS(筋萎縮性側索硬化症)などの難病当事者らが京都市内で会見し、患者が死にたいと望む自己決定権を根拠に、無罪を訴えた弁護側主張を批判。

<中略>

当事者らはこの日の会見で自身の経験などを踏まえ、死の自己決定権を巡る主張を「極端」と位置付け、「自殺を認めることになってしまう」と反論。
「『死にたい』を支えるのではなく『生きたい』を支え続けられる社会を」と願った。
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こういう主張はおかしいと思う。

まず、死にたいかどうかは個人の判断だ。同じ病気であっても、生きたい人もいるだろうし、死にたい人もいるだろう。しかし、この会見をした人たちは”生きたい人”だけしかいないだろう。その時点でおかしい。

そもそも安楽死事件は、ALS患者の林優里さんが、自ら130万円払って安楽死を望んだから発生した。本人の意思がはっきり示されている。安楽死を否定する事、今回の事件を否定することは、林優里さんの気持ちを全否定するのと同じだ。

今回会見を行った難病患者たちは、死にたいほど苦しむ人たちに、生きて苦しみ続けろ、と言っているのと同じだ。そういう生き方をしたい人はすればいい。でも、したくない人まで巻き込まないでほしい。

本人が「生きたくない」「死にたい」と言っているのに、それを邪魔する権利が誰にある?

死ぬ権利がないからこそ、電車に飛び込む人、SNSで誘い出され巻き込まれる人を出している。そして、わざわざ金払ってまで安楽死する人も…

本当に苦しんでいる人のことを考えるのであれば、本人の意思を確認したうえで安楽死を認めるべきだろう。

相模原障碍者施設19人殺害の植松聖は「障碍者には生きる価値がない」などの主張していたとされるが、それは一方的な価値観の押し付けだ。
僕には、難病当事者たちの主張も「生きたい」の押し付けとしか思えない。
どちらも「極端」だと思う。

一番大切にさせるべきは、本人の気持ちだ。
「生きたい」も「死にたい」も尊重されるべきだ。

どちらか一方を押し付ける「極端」な主張こそあってはならない。

生きるも死ぬも本人に選択の自由が必要だ。


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