「心を整える」の次元性の違い

日曜日の礼拝(サービス)で牧師から御言葉を聞く。

その御言葉を軸にして、毎朝祈る。神様に対して「今週の御言葉はこのようにおっしゃってましたよね。私の今の状況はこのような形なので、こんな感じで考えてみたのですがどうでしょう?」とか、あくまで一例として、神様と対話する。

対象が神様かどうかというだけで、いわゆる「客観的に自分を問う」「自分を見つめる」「自分の良心に問いかける」「内なる自分と対話する」という話と同じで、結局は「心を整える」という作業と概観は同じではないだろうか。

本来の自分、本質の自分、自分らしさ、正しさ、といった方向性の話であり、根本的には人を作った神様に聞く、ということがベストなのではないかと思う。実際やってみたら、答えが返ってくるしね笑

やってみないとわからないので、やってみて欲しいが、まぁやったことないとできないだろうとも思う。キリスト教は「実践信仰」と呼ばれるが、まさにその言葉は適切で、それは宗教的にはよくある話ではある。

外から見たら「瞑想」と同じ、「心を整える」と同じ。どの次元の自分に問いかけるのか、が違うだけ。結局人間はそのように作られているのだということがなんとなくわかるだろう。

ちなみに今週の主題は「どうするかによって、良くなるか悪くなるか左右される」だった。「良い、悪い」は抽象的だが、神様のことを理解してくると「神様から見た良し悪し」であることがピンと来るし、神様の考え方を理解していると「良し悪し」の基準はだいたいわかるようになるので、抽象的な言葉が絶対的になる。これは非常に爽快だ。

世の中には抽象的な言葉にあふれていて、その解釈を自分に委ねられるときは多いのだが、神様を知っていることのメリットはその辺りも大きい。抽象的、主観的な言葉が絶対的、客観的なものとして理解を進めることができるのだ。これは大きな違いだ。

はじめに戻るが、祈りをする活動は答えが返って来るのだが(これは体験しないとわからないだろう)、そこで得た答えは絶対的な信頼性を持つ方からの答えであることはメンタル的に非常に楽だ。

見えないものが見えるようになるとこれだけメリットがあるというのを書きたかっただけである。


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